アランは、「自分は芸術を理解するのに各分野一作品でよい」、と言ったが、原理(本質)を探究し、しかも〈もの〉に即してのみそれを行なう、哲学者の彼らしい言葉だ。多くの作品を〈幅広く経験〉するのは、印象比較力は養うであろうが、芸術という人間行為の創造の秘密を反省し理解することは、別の努力行為である。 このアランの指導的態度に、意図的に倣うことなしに、作品とそのひとへの分かちえない愛自体によって、その芸術行為の真実に迫る同じ努力にみちびかれることに気づく。自分の力が及ぶかどうかは見極めがたいことだが、ほんとうにかんがえるということは、このような具体的なものを、愛するがゆえに理解しようとする誠実ないとなみであり試みだろう。ほんとうの「愛知」とはこれではないのか。ほんとうに理解することによってその愛するものを所有することができるかのように信じる情熱なのだ。

精神的探究は、(美の)感動から入る。そのひとの世界を、作品を介して、美であると感覚するこころから。 高田先生の世界をこうして探求してきた。 先生(とマルセル)いがいのひとにぼくがこれだけ感じ、入りこみたいとおもうことは、かつてないことだ。ぼくの魂がぼくの納得ゆくように救われたいとおもうから。


自分のこと以外わからないが、対象に向う真摯さというのはどのくらいの人が持っているのだろうか。ぼくは、対象に向う真摯さはぼくは持っていることを感じ知っている。真摯さを持っている人は見ればわかると思う。大先生やぼくや裕美さんのようなひとだ(彼女のブログはね、実生活は大変なお母さんが幼児に笑顔だけで相手をしてあげているようなものだよ)。 分析的なことを言えることと真摯であることとは結びつかない。しゃべっている人の大抵は真摯ではないとぼくはおもっている。自分を太く貫いている骨がないということだ。それなのに生意気や批判を言う。風呂敷を広げる。大先生はそういう者たちをいちばん軽侮したようだ。 ぼくは大先生とともに、「美の形」をつくることに専念したい。逃げ場のない仕事とはそれだ。これははっきりしてきている。世の中を顧みることは気散じにすぎない。 しかしいまのぼくにとってなんと絶望的な重い仕事か。状態が木星のブラキオサウルスだ〔周りの連中のやったことが悪質にすぎる。ますますその非人間の意味がはっきりしてきている〕。