めずらしく地元の美術館でジョルジュ・ルオー展をやっていることを報道で識った。ぼくは日本でも、パリでも、そしてふたたび日本で、いろんな処で観ている。日本はルオー収蔵でも観る機会でも愛好者でも、世界でフランスをのぞいて一二をあらそうのだ。なじみのものをたしかめにゆく、そういう姿勢でのぞむ、ぼくは。ルオーの場合、たんに慰められるのではない。ルオーに面して、自分の道の自覚をあらたにするのだ。そういう態度でルオーに接するひとがどのくらいいるのだろうか。ぼくは『形而上的アンティミスム序説』で高田さんのルオー論をかなり奥深く探求した。こういう類の本は、自分で書いたのではあるが、今後出ないであろうと思う。表面的な概説分析は世に多くても、ここまで哲学的に深く穿った書は、他にありえない。高田さんの集中した異例に分量のあるルオー論を、ぼくの全魂を挙げてその核心を執拗に浮き彫りにした。これに魂が感応しない者、心動かされない者は、よほどの本質的教養無しか軽率なばかである。このばかが、わたしがたいへんな状況と状態に陥っていた時に、この者には分に過ぎた存在であるわたしの著をばかの了見で嬉々としてけなし、わたし自身をも愚弄したので、わたしがかなり精神的に立ち直った最近の時点で、無宣告で沈黙裡にわたしはこの者とのかかわりをわたしのうちでは絶った。それがこの著を出させた出版社である。以前、高田先生と関わりの深い人々がつくっていた雑誌の名と継続企画だけをこの社は受け継いだが、実体は関係なく、高田さんへの嘗ては共有していた敬愛も、特に中心者達にはまったくなく、関心も知識もない。それはだんだんはっきりしてきたが、自分の初めての著を出すに当って、ぼくは少しでも高田先生と縁のたどれるものを所有する社を選びたいという一心が動機で、敢えてこの社から出させたのだ。しかし「精神」がないものはどうしようもない。何の共鳴の器もないところから無理に出させたこと自体は失敗だった。装丁デザインはぼくが全部指示したのである。自費出版で金だけくれてやり、最近管理状態をたしかめようと思い、アマゾンを介して自著を購入してみたが、ほこりときずだらけで管理杜撰(ずさん)なのが瞭然だった。それでいま、このようなあからさまな書きかたをわたしはしているのである。さいわい、向こうで絶版になっていても、わたしの自宅にはきれいなままの未開封自著がなおそうとう山積みになっているので、購入希望の方はわたしのほうへメッセージを送ってくだされば善処します。 こういうことを書くのがこの節を書き始めた動機ではなかったのである。ぼくが書こうとしたのは、ルオーの世界に対面して「魂の道」を感じ自分のそれを歩もうと想うような鑑賞をするひとがどれくらいいるだろうか、ということに触れたかったのである。ルオーだけでなくゴッホでもセザンヌでもいい。ベートーヴェンでもバッハでもいい。単に娯楽ではすまない衝撃をあたえる芸術というものがある。高田先生の口ぶりに倣うことになるが、大勢ひしめきあってゴッホやルオーを見たあと、それと同じくらいの〈熱心さ〉で現代のポピュラーもの(それにもよいものがあるかも知れぬが、同次元ではあるまい)にも向かう観衆達のひとりひとりの、いわば内面的節操のなさを危惧するのである。ぼくははっきり言って、漫画やディズニーが無かったらどんなに文化的に落着き統一性(一元性)が世間にまだあってよかっただろうとおもうのだ。ああいうものもたまに気晴らしに接するのは、まあいいとしよう。しかし実際はそういう気軽さを超出して熱狂マニアじみてるではないか。〈気軽さ〉自体が熱狂化しているのか。そういう連中の日本・外国相互〈交流〉は本来的文化とは関係ないことで〈経済効果〉があるから踊っているだけだ。〈識者〉まで釣り込まれている。魂の道を忘却してその次元の〈夢〉にうつつをぬかしているにすぎない。そんな時勢だから思想芸術もそういう次元に接近してしまっている。言っていたらきりがない。いいかい、そういうものは気晴らしの遊びなのだ。そういうものに呑み込まれてしまったら「人間」はおしまいだ。そういう気でいて、いつでも切断できる、そういう気構えでしか接してはならないものだ。ぼくのところにもいろいろきらびやかなその種のものがくるが、適当にたのしんでばっさりきっている。ぼくが自分の秩序に留まるのは承知しておろう。マニア連の気が知れない。つけは自分に返ってきてごたごた言い訳することになる。かかわる時間の無駄。ほんとうに真面目なものに芯のところで関わって持続することが人間の条件だ。そういう真の人間の、自分の道を想起確認することが優れた芸術鑑賞の意味だ。