マルセルの「形而上学日記」はほんとうに面食らわせることが一杯書いてある。それもそのはず、これは彼の個人的な思索ノオトをそのまま公開してしまったものだからだ。彼は自らの個人的体験にもとづいて、《vision》(ヴィジオン:透視)現象の反省をしきりに試みている。とりつかれていると言ってもいい執心ぶりだ。

《透視者(voyant:ヴォワイヤン)は、透視するために、動く必要はない。反対に、彼の透視は彼の受動性の働きなのだ。それは、通常の知覚が私の能動性の働きであるのと同様である。しかし他方、私が間違っていなければ、行為する存在の構造は、必然的に、そのような透視のすくなくとも観念的な可能性をふくんでいる。どのような条件で透視が可能なのであろうか。私がさしあたり気づいていることは、未来というものもまた、自らの能動性と道具的価値に繫縛されることすくない者にとっては同様に現出するということだ。実際、時間の世界というものは空間の世界よりも私の道具的能動性から完全に解き放たれているというわけではないのだ。》 1920年12月9日の日記より.

ここで、封をされた手紙の内容を透視によって知るという類の現象が問題にされている。それに関連してマルセルは未来予知をも同様なパースペクティヴで問題にできると確信にちかい思いを懐いている(これは実際に彼が第一次世界大戦の最中に赤十字奉仕活動を通して経験したことである)。通常我々は身体運動による知覚の際はたらく能動性の延長上に透視もかんがえがちであるが、彼によるとそれはナンセンスで、我々も自らの能動性の裏ではたらかせている受動性の能力こそ、透視現象の鍵となると彼はかんがえている。彼の想定している《形而上的身体》は、空間のみならず時間をも超越し得るものとしてかんがえられているらしい。このような〈予知〉は、ベルグソンも哲学的に可能性を認めるのに難色を示したものである(マルセルとベルグソンはこの問題を実際に語り合った)。



〔あまり書きたくないが、ぼくが集合容喙現象とよぶ状況においては、ぼくの周りに大量の〈ヴォワイヤン〉が送り込まれたか発生したのはあきらかである。彼等の言動からこれはまったく明瞭に察知される。かくして、マルセルを読んでいた時には純粋な精神的関心事であったものが、おぞましい戯画のように現出したというのが、僕の経験である。〕


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マルセルへの言及節: Selbstwerden  (727)