いろいろ幸福論があるが、中心であるべきは「自己となること」である。これなくして充実はない。充実が幸福である。「自己愛」が最も大事なことである(自己愛主義ではない自己愛、などと念を押しはしない。したり面(つら)をする観念野郎など思いたくもないから)。
〔「自己となること」すなわち Selbstwerden (ゼルプストヴェルデン)はヤスパース実存哲学の最中核理念である。〕



推察するに、わたしの言説に腹を立てる向きもあるようだが、わたしが敢えてそういう言説をするのは、その相手に、そう言説させるものがあるからである。それに気づかないで腹だけ立てるなら、心が盲目に支配されている証拠である。すなわち、めざめるべきものにめざめていないことである。めざめていなくても、みずからのうちに問題があるから腹を立てるのである。 わたしも自分への他者の言動に怒るが、本性がまったく異なる。わたしはそこに不純な悪意と傲慢を正確に見抜いているから怒るのである(そうでなければわたしはけっして怒らない)。



最近、「忽然と」という言葉をよく使う。急に縁がきれて新しいものが開けるのだ。歓ばしき別離。 他者にとってはぼくは当てにならないとおもうことがあるだろう。ぼくにおいては自然なことなのだ。

 ほんとうに「ぼくの」魂に創造的に触れるもののみがのこる、あるいは全面に出て他のものを圧してしまう。



端的に言っておこう。ぼくにもそうとう霊感がある。これは確かだ。だから巻きこまれたのだ。



713節「自己の原点回想」がずいぶん読まれている。これはぼくの個人史の骨格だ。霊感はこの延長上なのか付け加わったのか判然としない。マルセル的反省によれば前者の可能性があるのであろうが。

〔マルセルによれば、霊感も通常感覚同様、受動性と能動性の二方向がはたらいている(通常感覚のこの特性の認識はメーヌ・ド・ビランの分析がフランス哲学の伝統の基礎となっている)。彼の sens (サンス:感覚)の省察から読みとられることである。〕

〔マルセルの形而上的日記の続きを読んで面白かったから記しておこう。vision (霊視)が問題となっている。霊視者が霊視するとき、身体的な機能性がどれだけ考慮されうるかをマルセルは反省し、身体的機能性を前提するかぎり、通常知覚(perception)の延長上にしか霊視はかんがえられず、未来予知にまで霊視を拡張するのに無理がある、とみる。つまり、それほど彼、マルセルにとっては、未来予知現象は確定的な経験的事実らしい。そこで彼は、霊視者のまったき「脱能動化(デザクチュアリザシオン)」-能動性を前提しているかぎり身体機能性においてしか現象をかんがえられない- を、つまり「脱受肉化(デザンカルナシオン)」-「部分的な」と留保している-を思惟する。身体離脱である。それが、現在的霊視(透視)のみでなく未来的霊視(予知)をも可能にする、と彼はかんがえているようだ。マルセルも、根底が深く隠された現象を、あえぎながら思惟しているのである。〕


「自分」を語らない思想は、「神」を志向する思想であるかぎり、虚偽である。西欧思想の本質にこれがある。だから、西欧本質に肉迫し真の思想を得ることを志した学者 森有正は、自己を記すかたちで思想を表出しはじめた。これは勇気のいることである。私生活告白ではないのだ。これに達しない思想営為をぼくはまともに相手にする気はない。気づけばぼくもそのようなことをしているようだ。はじめて気づいた。






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さて、パソコン業界は、遂に製品に操作説明書を添付しないようになった。電話で24時間操作説明を受け付けていると言うが、掛けても〈唯今大変混雑しております〉という自動返答だけ。そうにちがいない。時期が経っただけ使い易くなってきたかと思っていたが、逆である。消費者によくこう鉄面皮になったもの。技術の発達方向を規定するのも「人間」である。

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