美しいもの、愛されるべきもののみが〈存在〉するという確信は、プラトニズムのものであるとともに純粋に人間主義の表明である。この確信は創造主の観念からも独立している。精神のもつ内面的な拒否の力を前提している。〈善なる神〉はこの人間精神による〈逆転的発想〉である。これが信仰である。

自己の力による自存的幸福の道はあまりに安易だからわたしはこれをとらない。最も尊いものは他者のために悩み悲しみ苦しむことである。これが愛であり、幸福論をはるかに超出している。イエスの精神はこのゆえに人間主義の根本にあるのである。「復讐するは我にあり。我を払わん」。生きるとは、自他の尊いもののために闘うことである。内面的にも外向的にも。そこにのみ尊厳がある。屈しない力。自存力は、自己の幸福のためでなく、この闘いのためにあるのである。それほどそのエネルギーは強大である。自己の幸福を自他に遠慮しないのはあまりにも当然過ぎる。人間の力はそんなところにとどまってはいない。幸福を意志し確信し得る(アラン)者のみが闘い得る。闘う幸福人、それが本体である。依存的な闘争者など存在しはしない。


それにしても、アランは、「『かんがえる葦』とはおよそいかなる葦でもない」と言っている。人間のアナロジーにもメタファーにもなっていない、文学的修辞としてもまずいと言いたいらしい。とくべつ意味あってここに記したのではない。ふと思い出して、というかいつもおもいだしては緻密なアランのこういう傍若無人さをこのましくおもい、こころにゆとりとユーモアをおぼえるのである。


「自由」のために団結するフランス人は、組織団体のために団結しているのではない。団結の根源がちがう。イデオロギー(観念・主義)のためではない。自由はまず根源的感覚としてあるのである。これほど純粋な団結はない。感覚化された、感覚として現存する理念である。集団主義の日本の対極としてあるから、彼らの心情を了解し得るためには日本人はよほど精神的に背伸びをしなければならない。日本は奴隷甘受の国だから。


ぼくの課題であるが、ネガティヴな感情もポジティヴな感情も入れない純粋詩をつくりたい。そこによみこむ感情はひとそれぞれであるような。それがいちばん普遍性がある。純粋美はすべてのメッセージをこえた力をもっている。
 すなわち、彫刻と等しい言葉。 彫刻はただ〈在る〉。 マイヨールの彫刻理念(本質)が「存在」であるように。「美」は「在る」ものである。彫刻がもっともそれを端的に示す。高田先生の文章も「在る」文章である。先生の彫刻と同質だ。
 ( しかし、神秘的純粋象徴画に達したルオーも、人間への自分の関心感情に基づいた画の制作を通ってそこに至っていった。自分の感情に正直に、魂の告白として創造してゆくのがよいだろう。ルオーはその点、内面的には一貫性があった。友人の画家たちが意識的工夫の困難な実験を重ねていったのに比して。高田先生もルオーのような道をとおっていったと思う。)



学者とは哀れなものだ。文献の中の思想のために自分の思想を犠牲にする。高田先生は一日の大半を彫刻に費やしたから、自分の感覚と経験と反省と思想の充分な醗酵の時を生きることができた。


高田博厚先生1935


先生35歳時、つまりパリに来て約五年目の頃の貴重な写真。大変逞しい硬質の精神力と知力を感じ、甘さのかけらもない。これこそ男だとおもう。本場の個人主義者たちの間にあって互角以上に張り合っていただろう。日本人もこうならなくてはならない。存在自体が日本の誇りだ。わたしも、この五年程、平常時ならこの十分の一でも名誉棄損、生活侵害で決闘してやらねばならないような言語道断の目に合ってきている。怒らなくてはならない。怒りを日々表明しなければならない。これからは毎日が静かなるやり返しなのだ。絶対臆する義務はない。先生とは状況の意味が違うが、やはり社会の悪を徹底して経験してきている。社会自体に何ら尊重すべきところはない。善の可能性は個々の人間にのみある。先生のこの雄々しい表情と立居をみながら俺もやってやるとおもう。