ヴァレリー「海辺の墓地」全訳完成しました。ご覧ください。620-621節 〔628 ヴァレリー「海辺の墓地」訳・註解あるいは随感 〕
〔原文はプレイヤード版とズールカンプ版の双方を常に照合し、一点一画に到るまで相違のないことを確かめている。ドイツ語訳、既存の邦訳とも私は相手にしなかった。邦訳は過剰な粉飾が多く、原意と原文の論理的次元での構造が伝達可能になっているとはとても思えないという印象を受けた。一応、私の印象であると断わっておく。私の訳は大方に裨益するところ大であると思っている。〕〔624 随感 ・ 読者へ 〔~le 22〕





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天皇陛下 御誕生日おめでとうございます。


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ところで、日本企業の企業広告は、人間の感性に不快を与えない美感で作られないものだろうか。一部に高度に洗練された文化的広告がある一方で、質的に正反対の醜さの開き直りのような広告があふれている。フランスでこういうことを感じた記憶は僕の中に全く無い。日本のちぐはぐさがよく現われている。この分裂があるかぎり、日本は本当の文化国ではない。広告が出せる位の企業の文化意識の低さは、言い訳がきかない。生活において美意識を培うことがないならば、日本は今後も恥ずかしい思いをする。必要あってこの電子情報網世界に関わっているが、その都度様々出る広告で不快な思いをしない日は殆どない。文化感覚を上げてゆく努力が必要である。ぼくがいま言っているのは、ユーチューブを使う際に最初に出てくる企業広告が、消す間も無く雰囲気ぶちこわしの気分にさせ、UT視聴を止めたことへの腹立たしさからである。


「日本の美」が言われる。しかし日本の〈庶民〉に美への志向が例えばフランス庶民のように根づいているか。美を宿すためには精神が毅然としていることが必要なのだ。外見などの問題ではない。この意味で、〈あるがまま〉に安住し開き直るのは問題にもならない醜である。僕は大嫌いだ。