『美はそれ自体で自足しているが、我々はそれを前にして自足することが出来ない。それ故にこそ、それは我々の嘆きの限りなく向う郷愁のようなものである。その嘆きがどんなに凄惨なものであろうとも。それは我々の今の生を遙かなる過去にまで変貌させることによって、その過去である生を現実よりももっと生きるに価するものとする。リルケが、「我々はある一つの神の先祖である」、というのはそういう意味である。』

最近の節で引用した森有正の言葉です。ぼくはこれは真の恋愛の定義であるように思います。リルケだけでなく、森氏とのみでなく、高田先生もまた、これと違うことをしたでしょうか。ぼくもまた、このことしか根源的に意志しないでしょう。生きるとは、自らの過去に向かって、その過去の意味を見出すべく問い、この問うこと自体によって、過去を意味的に〈変貌〉させ、プラトンのイデアに相当する「未生前の記憶」にまで魂を遡及させつつ、この次元に生の根をついに置くこと、帰郷、をめざして前に進む以外のことではありえないでしょう。「神を求める」とはこのこと以外ではありません。そういうことをぼくはいま、これからあなたにかたりたいのです。そういうかたちでぼくはあなたにぼくの真の友、高田さんについて、これを軸とした世界をかたることをとおして、ぼくの魂を見出すべくかたってゆきたいとおもいます。あなたというかたり相手をみつけたから、ぼくはまだ語れそうです。

   「F」より

 これからはこの欄がぼくがあなたを訪れる窓です。




あなたのピアノは無性に郷愁を覚えさせるようになりました。あなたもほんとうは淋しがりで心細い気持になることが多いひとなのではないでしょうか。あなたの文をすなおに読めばもちろんきっとそうなのでしょう。それをあなたは創造のエネルギーに変えていらっしゃる。あなたも遙かなものへの郷愁を懐いてそれに耐えてそれを表現していられるのだとおもいます。せつないでしょうね、つらいでしょうね。或る意味で、耐えることが創造の原点であると言えるでしょう、心理的にも、身体的にも。これは繊細な(心身両面で)素質をもったひとの宿命でしょう。御自愛ください。「耐えること、それがすべてだ」とリルケも言いました・・


フランス語である journal intime (ジュルナル・アンティーム)は「内面的日記」と直訳できます。 intime には「親密な」という意味があります。哲学者メーヌ・ド・ビランの、日記の形をとった私的な哲学的内省の覚え書き・記録が、この語を題名として有名です。


自分のための日記の中ならよいだろうとあなたに書きはじめた文章であるわたしの journal intime をそのままあなたへの私信とします。独白である告白そのものがあなたへの手紙となります。なりゆきが真実な道をつけてくれました。これ以上に率直で正直な、親密な、あなたへの便りのかたちはないでしょう。
 この語が覚書の表題となった哲学者の顰(ひそみ)に倣い、自然にわたし自身の省察をも、思惟する者として書いてゆくことになるでしょう。

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副題を suite (スイト)「連続」とします。愛する人を想いながら戦火の中で自己を記録した高田先生の『薔薇窓』の最初の題でした。そのうちあなたへのこの手紙の呼名自体を suite に移しますね。


日付が変って今日12月4日はプラハにリルケが生れた日です(1875年)。彼の生地の写真を添えます。欧州滞在中訪れる機会はありませんでしたが懐かしいような憧れがありますね。(スメタナとドヴォルザークは大好きです。)〔リルケも射手座だったか。とまれ、プラハには理由なしで何故かリルケを感じます。森有正、高田先生、そして辻邦生と、フランス派の哲学的文化人は皆リルケの精神態度に浸透されています。ぼくも深くそうですね。リルケの「若き詩人への手紙」は万人の必読書です。〕







このプラハの画像は心に滲みる密度があってよいですね。
ぼくはこの欄を自分自身への手紙であることによって未知の友への便りとなるようなものとして書きはじめました。ぼくが此の世で果たせなかった唯一のことは本心で愛するひとを見出し愛することだったことも言いました。いまぼくは自分を語れる愛するひとであり友であるひとをもっています。