数日前からこの季節につつじの花が一株に一輪ずつ咲いているのに気づいています。隣り合って紅白の花が。いつもはそうでないようなのですがね。




私としてはありふれますが、つつじは来年のことはかんがえないでしょう。いましかおもわないでしょう。いや、いまもみらいもないでしょう。此の世の時間なんて知ったことではないのです。



ぼくはいつはじめるのであろうか、いましかない。自分(の時間)をはじめるということは、此の世の時間(とそこに組み込まれた富の世界)を断念することだ。純粋自己への原点回帰 純粋憧憬へのパスカルの賭け

なぜなら貧しさとは内部からさす光である(リルケ)


 
Rilke 1900

ぼくの記憶では、リルケはロダンから「もの」に取り組む姿勢を学んだのである。この「もの」重視はリルケに自らの本質的レゾナンス(共鳴)を覚える森有正の「経験」の思想のなかに、アランの「ものなしには思索しない」という根本態度とともに受け継がれる。高田先生の影響は勿論である。純粋自己なるものも「もの」への関わり、そこでの「実証」なしには抽象や空想に陥る。ひたすらに「仕事する」実践はロダンからルオーまで遍く真の自己探求者の不文律である。個人の歴史なるものもその結晶の美(作品)の呈示なしには積極的関心の支点を失う。
 この自覚においてフランス思想はドイツ神秘思想の弱点を克服する。神秘と合理の統合をフランスの思惟伝統に学ぶべきである。 匆々不一



確認:

《リルケは、殆ど対蹠的に見えるアランと共に、ヨーロッパにおける私の生活と仕事との二本の支柱のようなものとなった。そしてこの二人によって代表される二つの思想傾向が本当は異質のものではない、ということを、長い時間をかけて読んだプルーストは私に教えてくれた。それは、デカルトの「情念論」も教えているように、感性から意志に到る人間の在り方の全体がヨーロッパでは一つの世界を構成し、どこからそこに入っても、徹底すればその世界の全体を見ざるをえなくなるからである。プルーストはその「喪われし時を求めて」において、この精神の徹底的遍歴を描き出している。》

《リルケは、フィレンツェヘ来て、ルー・アンドレアス・サロメに手紙を書いた。その意味はその手紙そのものが明らかにしている。美はそれ自体で自足しているが、我々はそれを前にして自足することが出来ない。それ故にこそ、それは我々の嘆きの限りなく向う郷愁のようなものである。その嘆きがどんなに凄惨なものであろうとも。それは我々の今の生を遙かなる過去にまで変貌させることによって、その過去である生を現実よりももっと生きるに価するものとする。リルケが、「我々はある一つの神の先祖である」、というのはそういう意味である。》

以上、「リルケのレゾナンス」(森有正、1970年7月 札幌)より 〔『フィレンツェだより』リルケ著・森有正訳、筑摩書房 所収〕。こういうものをじっくり読んで自分の血肉としなければだめである。

ところで、心血を注ぐ行為以外はすべて嘘である。心に届くことはない。私がここに私以外の人の文章を写す場合も、私は、ピアニストが譜面の音楽を鍵盤に〈写す〉場合に入魂しなければ全く意味が無いように、魂を入れて一語一語を打ってゆく。「思想」を意味あるものとして保つのは私の精神であり、「思想」は本来そういう扱い方を要求しているのである。誰も見ていない。だからこれは私の祈りの行為である。思想も芸術・音楽も、その現勢態においては真の宗教儀式の精神態度を要求することは少しも変らない。あらゆる「仕事」は「意味」があるかぎり神への祈りであり神聖なものである。「集中」している生は祈りである。特に演奏は逃げ場のない自己の魂の証の行為である。この真剣さに倣って文を魂を入れ綴る時、その時にのみ「思想」は「存在」している、音楽が演奏されて存在しているように。観念を明証的に直観している時以外は思想なるものは存在しない、これがデカルト以来の精神である。

  30日5時23分