なぜなら美がぼくたちを信仰させるのだ

この移ろいやすい現象のなかで

美の経験が美の当体を信仰させる

この信仰をぼくたちは愛とよぶ。

美は形をもっている。

形相(けいそう)をもっている。

イデアは形として現前する。

それを「神の受肉」とよぶ。

そしてぼくたちの「魂」とよぶ

魂の愛

信仰










海、再び
2011.6.27
話している時とはうって変わってピアノを弾いている時にはぼくが論文を書いている時のような真剣で緻密な大人の表情をみせるきみ、ぼくはちゃんとみています。






______

あらためて言っておくが、ぼくを潰すことを承認した此の世の摂理、その象徴たる創造主など、ぼくはまったく信用していない。ぼくの現在の全思想の企図の本質的一側面は、「理性的なものは現実的であり現実的なものは理性的である」(ヘーゲル)といった戯言(たわごと)が知性とは何の関わりもないことを確認しつつ此の世の原理そのものを白日の下に断罪し、この判断の力によってこの現実の力に復讐することにあると言うことができる。これを書いた今奇しくも翌日ちょうど3時00分。このぼくにとっては牢固としている判断を今後それほど繰り返すことはしない。


_____
今日も昨日になったが、27日は今年の感謝祭の日で、七面鳥が屠殺から恩赦される(Turkey Pardon)のだそうだ。わざわざ報道された。言われる迄もなくぼくも既に似たようなことを行ったので、殊更な報道の様子が見ていておかしかった。知ってたのだろうか。これも此の世の興だ。




=====
le 28
ぼくの信ずるところによると、美が永遠の存在を信仰させるだけでなく、この信仰はその存在に集中させるから、美を探求する者は美の当体に向って自らを純化させてゆくという時間過程を経験することになる。これは「純化」であって〈変化〉ではない。そしてこの純化こそが「深化」なのだ。「一元化」であるが、もちろん集中化といってもよいのではないか。自分の求めるものがしだいにはっきりしてくる。その本質的なものに関心が集中してくる。「形」が立ち現れてくるのはこの過程によってでしかないのだ。芸術家はこれをやっている。「本質」の探求はその本質の「形」の探求にほかならない。これがイデアが形あるものであることの意味なのだ。論理的であると同時に感覚的なギリシャ人はこれを理解していたであろう。見出された「本質(イデア)を現す形」、これが芸術(作品)であった。イデアは抽象理念ではなかった。美への愛なくしてこの探求は為しえない。人間への愛も同じだろう。付き合っているうちにしだいに自分にとって何が本質なのかが感覚事実となって解ってくる。その本質を感じさせる人に関心は集中してくる。この点において人間の平等博愛はありえないと思う。理念としてはそうでも現実においては特定の「本質体現者」に関心は集中し、これを愛、自覚的となった愛という。人間はけっして「美しい〈形〉をもつ人」しか愛せない。愛は選別するのだ。自分の感覚への同意である。この「感覚」のみが「深化」してゆくものである。〈心変わり〉ではないのである。「本質への探求心」がある者はかならずこの過程がある。これについては多く言うことがある。結論のみ言うなら、愛する相手をついに見出すことは自分を見出すことと同じである。人間の愛は動物の性欲ではない。動物は自己探求などしない。自己探求しない者は動物と同じである。動物になればよい。そんな者を私は愛の対象となどしないであろう。すこしの「美」も感じないであろう。私の「美」はあなたがたがそう呼ぶものとは違うのである。真剣に自己探求しなかった者はその報いを受けねばならない。これは思索であるよりもむしろ感覚反省であり、自らが感ずる美の意識化である。これこそ真の自己探求なのである。自分を本当に感動させるものは何であるかの気づきなのだ。「魅力」自体が既に別の基盤に据えられて感ぜられている。こうしてぼくが見出し、純化された感覚によって選ばされた人に集中するのを誰も文句は言えないのである。ぼくは誰も裏切ってはいない。心が移ろいやすいのでもない。却って強靭な意志をもって持続的に反省探求した結果なのである。もう観点も他の人達とは違っているのである。あなたがたはいつまで同じところに留まっているのだ。ぼくはとっくにそこにはいないのだ。貴族主義は人間精神の宿命である。そうでなければ人間は動物と五十歩百歩だろう。「人間であること」は既得権益ではなく「人間となる」という課題を意味する。この要諦がいかなるものかを私は触れたのである。


こうしてぼくは常に高田先生の精神・思想と共にあることが解ろう。多く引用することではないのだ。同じ思想を自分自身の経路をとおして自分の言葉で言い得るとき、先生は共に在る。