自分と向き合える者が自己表現としての言葉のみを語るがよい。そしてその表現の中で精神の合理を探求しそれを示すがよい。魂の告白そのものの中に在る合理を魂と共に実証するがよい。熱情と知性はこうしてのみ統合をみる。この精神運動の理念に私の欄のすべては基づいている。形而上的なるものはこうして証される。これが西欧的精神の本道である。

高田博厚という太陽は僕が自分自身となるこの道において不断に照応対決して自分を確認する相手なのである。

この欄はこの僕の道が〈他から見られるに耐えるものでありたい〉という僕の「形」への意志の表明・表現の場である以外の意味を持たない。〔なぜなら美意識こそは主観的であると同時に客観的である唯一のものであるから。〕

 この再びの集中度を失わないことを自分に期す


人は真剣にやっているかぎり、慣れるということは絶対にありえない。真剣さと慣れとは本質が相容れない。





僕の意志は宇宙を瞬時に震わす作用力を持つ程強いのを通り越して宇宙現象と同時生起的になるに至っているようだ。




僕はこの欄で僕以外の他の存在の紹介や説明をそれじたいのために一切やらないのは、充分承知されているだろう。例外は大先生(高田博厚)だけであり、僕にとって特権的に特別な存在であることが解ろう(まさに「先生と共に」の欄である)。純粋に僕自身の存在に向かうという筋と規制枠が美意識として一貫して堅持されている。僕自身の魂が欄の主題であることは徹底している。そして先生の内奥に触れ感じることは僕自身の根源感覚を開くのだ。先生なくして僕はないから先生を語る。僕と先生の本質に関心のない方はこの欄を読み続け得ない。ここで折々に触れる諸存在をそれ自体紹介する労をとるなら、どれ一つとっても僕の説明の魔力で読者を虜にすることを僕は知っている。さながら公開哲学講座になって話題を独占するだろう。大学講義の要領だ。それを僕はしないのである。それでは僕がお留守になるのである。そんな奉仕は僕はもうしない。僕はこの欄を他者奉仕のためなんかに全くやっていない。ひたすら自分のためなのである。自分が自分の神に近づくという自己目的以外かんがえていない。そして僕はだからこそ貴方がたの大半より人に訴える力をもつことを知っている。はじめから観客に合わせるコンセプトでは真に訴える力はたかが知れているからである。この逆説をようく得心するように。貴方がたの次元は社会、僕のは根源なのである。社会に合わせれば〈成功〉するのは分りきっている。そんなことはしない。僕ははじめからもっと高い動機をもって始めたのだ。なにか紹介するのも僕の愛情からで、それが本筋ではない。ルオーやセザンヌが追求するのと同じ次元で僕はやっているのだ。彼等に自分以外の他を解説する余裕などない。それは他の〈先生〉の仕事だ。創造する者の仕事ではない。読者にはこれを改めてよく弁えておいてもらう。
 (僕は自分のやっているすべてを意識している自己意識家であり、しかもそのなかでかぎりなく純粋で単純にもなれる。この両極端と見えることがどうしてやれるのか、そう意識する限りでは謎である。)



僕は自分の言葉というものをとても大切にしている。単純な直観が正確に文節構造化されて完全な意識にもたらされるようにいつも集中している。そのために言葉を綴ることが主要なたのしみとなっている。それでも一日PCを開かず本だけ繰っている日が欲しい。意識のありかたが違うのである。その日は紙に文を書こう。やれるかどうかわからない(書きたくなれば手がつけられないから)が、僕の望みである。そうして二日に一回になればよいと思う。

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ロシア人の或るタイプは印象が僕の意識とすごく共振する。奇妙な精神の類縁感覚がある。言葉で言い難い。


僕もこの欄の文を本にすることはとくにかんがえている。費用と労働が問題だ。(最近しきりと広告等でオファーがあるが自費出版のようだ。その間は書けなくなるだろう)
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 tous mes remerciements