彼女のファーストアルバムを聴いていてまた泣いてしまった。泣くというより聴いていると自然に涙がこぼれてくる。あの一途に鍵盤を叩く弾きかた、その気持は、そのまま愛を人の心にうったえている。愛というのは、純粋な愛とは、それではないだろうか。ぼくは、〈悲しい〉ことなどではめったに泣きはしない。かつていちどだけあった。しかしそれいがいは、「美しいもの」「純粋なもの」でしか泣いたことはない。じつはみんなそうであることをぼくは知っている。美しいもの、純粋なもので泣くのは、たぶん人間だけだ。ぼくは高田先生のあまりに美しい純粋な真情を文章で読んで泣いた。伝わってきた。純粋とは、もっとも単純なものがもっとも深いものでもあるということなのだよ。それを感じたとき、自然に涙がこぼれるように人間はできている。ふしぎなことだね。この実感が人と人とを繫ぐのだ。ぼくは愛しかもとめていない、と何度も言った気がする。知なんて愛のまえでは無だ、とも。愛がどういう本質と様相のものなのか、それを感じ示したい、表現したいのだ。これを書きながらもぼくは必死で状況と闘っている。拒否する力を得たい。この一点で先生はアランと、そしてデカルトとむすびついている。ぼくもそうである。そして愛の本質と様相を「発見」する。けっして〈発明〉はない。だからぼくの書いていることはいっさい〈理論〉ではない。〈意識〉の産物ではない。デカルトは、そしてもっとも対極とみえるマルセルは、ともにいかなる形而上学説をも発明したのではない、ただ自己沈潜によっておのずから見出していったのである。能うるかぎり自分に密着し正直であること、それだけだったと言ってよい。それが唯一自覚され自分を導いていった「方法」だったのだ。「説」のまえに「方法」があるのだよ。これを学問的にあまりに意識化するとおかしなことになり実を得ないことになる。それが〈現象学〉の弊害、人間的弊害だとぼくは思っている。しかしどうでもいいことである、これは。 ぼくが〈理論〉を得ようとすればこの欄のような書きかたはいっさいしなかったであろうということを確認したいのみである。これはぼくにとってではなくきみたちのために念を押したのだ。 形而上的アンティミスムはメタ思想(メタ理論)であるという意味はそういうことである。それは思想そのものの根源をみずから感得し確認すること、この確認そのものを生の経験のなかで展開してゆく「発見的実践」なのだ。どんな矛盾とみえることのなかにもくりかえし精神と魂の意図せざる秩序を見出してゆくだろう、秩序そのもののためではなく美と愛が内包する人間の運命を先ずみずからにおいて自覚し生きるために。「純粋」とはそこにきわまるものだ。