自分のすばらしさの前に謙遜になる。
先日録画しておいた内村鑑三にかんする談話のなかで、内村は愛のまえに謙遜の大事さを説いていたとあった。神がすべてにさきだって自分に与えてくれた恵みに感謝するといういみでの謙遜である。 これをぼく流にいえば〈自分のすばらしさの前に謙遜になる〉ということである。ぼくのめざすところは、それによって真の平等主義を世に自覚させることである。〈平等〉についてはすでに言ったことを読者は記憶しておられるだろう。どうして比較的にへりくだったり高慢になることがあるのか、自分のありのままのすばらしさを自覚すれば。ありのままの自分のすばらしさを敬し愛することが真の自己愛である。それは宗教的な愛なのである。神へのへりくだりは自己へのへりくだりであり、比較を超えた絶対的なへりくだりであり、これが真の謙遜の意味である。これは真の自己肯定である。このいみでの自己肯定しかぼくは言ってこなかったのである。この謙遜な自己肯定すなわち真の自己愛は、あらゆる愛の基盤であることをしるべきである。
 美・愛・真 の秩序。愛に先行するものは美である。美は敬するもの、それじたいの存在に感謝するものである。魂(と神)は美しいものでのみありうる。これがほんとうの〈信仰〉である(「美が僕達を信仰させる」高田博厚)。「人は愛しているものからしか学ばない」(ゲーテ)。すなわち、美しいものからしか学ばない。