人間のエゴというものは相当なものじゃないだろうか。僕がいちばん謙虚な部類のような気が正直どうもする。みんな僕より業が強い印象をひそかに感じている。ぼくなど空気のようなものだ。(そう思うと、他者の態度があまり癪にさわらないことに気づいた。同等であると思うから癪にさわるのだ。)


僕は自分にしか関心がない、ということは、誤解してもらってはいけないのだが、他者にどんなに関心があっても自分を掘り下げた分しか他者の「理解」には達しないということなのだ。「自分」を理解するしか仕方がない。他者そのものに即していこうとする場合でも、研究などそうだが、やはり自分のなかに「照応」が生じた分しか「解った」とは思えないものだ。それ以外は全部〈空想〉だ。他者をあれこれ論ずることほど無責任なことはない。だから「一流」と言われている人の「評論」など読んでごらん(小林秀雄など)、対象〔他者〕があっても自分(の経験)と重ね合わせるような仕方でしか論じていないから。それ以外は全部空想だということを知り抜いているんだ。だからね、きみたちは「一流」に力が及ばないのではない、「一流」は探究の方向が違うんだ。自分を掘り下げてるんだ。きみたちが他者を論じるのは空想なの。無責任なおしゃべりなんですよ。自分の反省の仕方が生半可なのに他者をあれこれ論じなさんな。そういうことだから反発をくう。「ヴァレリーは生涯〈自己〉をしか語らなかった、それがフランス批評精神の王道(伝統)だ」と高田先生は言っている。小林もそれを自分なりに実践して「近代批評の確立」をやったというのはそういうことなんですよ。「ク・セ・ジュ」(私は何を知るか)というモンテーニュ以来の、デカルト(「我思う」)を通ってゆく、「自己への問い」の蓄積があるのです。そういう精神の経路を踏むことに意識的とならなければほんとうに「謙虚」などありえないのです。すぐ「意識の網」に引っ掛りますよ。「自己批評」が基礎ですね。あまり独り言のようではないけれど、これもやはり独り言です、架空の「きみたち」を想定して語ったのですからね。


パリに居た時、小林秀雄のルオーの版画集「ミセレーレ」の中の作品に関する短文の感想をフランス語訳してイザベル・ルオーさんに送ったら、電話が直接かかってきて、「たいへん嬉しかった」と伝えてきた。イザベルさんは小林と会ったこともあり、「彼はとても良い表情(ヴィザージュ)の人だった」と僕に語ったので、新潮文学アルバム「小林秀雄」をあげた。ルオー家にこの本があるなら、それは僕があげたのである。


コギト精神に基づくフランス文芸伝統をほんとうに破った創作者があるなら、それはマルセルである。彼の戯曲創造は、存在論的と言うべき「間主体的」な霊感に基づいている。作品の登場人物が創作者の意図とは関係なく自立的に、つまり作者にとって「啓示的」に生きることを彼は経験しつつ書いた。彼は哲学者としては特異な霊媒素質をもっていた。「形而上学日記」および言及した彼の自伝的作品「道程」に記されている。黒澤明も作品制作の途上で脇役だった人物が黒澤の意図とは独立して自らの存在を主張しだした経験を述べている。しかしそうして出来た、彼にとっては意想外の内容の作品のほうが、彼の謂わば独裁的意志で引き締めた作品よりも鑑賞者に持続的な印象を残すのである。そういう例として、脇役弁護士が存在性を増してゆく「醜聞」がある。黒澤の全作品をみたが、それぞれが、文学教養の抜きん出ているこの映像作家の面目躍如たる感銘を受けるものである。しかしタルコフスキーのような神秘な深さを湛えた世界を知り紹介した辻邦生氏などは、「西欧は黒澤、黒澤と言いすぎだ」などと僕の前で口にしていた。僕自身を言えば、黒澤の技量は大したものだと思うが、パリの日本映画祭で大正、昭和戦前・戦中・前後まもなくの広域に亘る自国映画(日本では観られない制約のある歴史的価値のものも)を集中的に観る機会があり、パリで学問論文を書きながら、息抜きが日本映画で、これはそれ自体充実した経験だった。外国で観る自国映画はそれは格別のものであった。そのなかではじめて僕は成瀬巳喜男の作品をどの他の作家のものより愛するようになった。大正、戦前の日本のモダンさは驚くべきものであった。そして頂点は戦直後の「浮雲」なのであろう。彼の世界は戦前も戦後も素晴らしかった。記憶の水底に残り生きつづけるものが他のどの作家よりあるのである。彼の作品には人間の生きる時間の経験がある。この詩情はたとえようもない。こころに残るのは筋ではない。この詩情と愛情のイマージュなのだ。このことでは成瀬は天才だと思う。こころに残る彼の作品をここに全部言わず、「浮雲」のほかの作品をいまひとつあげれば、「乱れる」である。これは全然乱れた話ではなく潔癖な話で、潔癖・真面目ゆえに最後の開放の、愛情がついにあらわになってかよった情景はいつみても、愛情の純粋と気品と真実のゆえに、熱い涙を感じることなしに観られない。そして成瀬の深淵は、最後に此の世の酷い〈罰〉を、純粋な愛する者たちをも仮借しない〈罰〉を、ほとんど啓示的感覚をもって示す。此の世の不可解さ!ゲーテの「親和力」の感覚を思わせる。同時にいま私には幾時間前に聴いていたシベリウスの浄く哀しいかぎりなく情感の深い、ほんとうのロマンティシズムのピアノの調べが記憶のなかで鳴り響いている。この人間の生きた愛情の流れを制作自身が生ききるような造り方の作品世界の魔力のまえで、黒澤の画割の様な世界は急速に〈ぼくの世界ではないもの〉として影が薄れていった。映画に関するかぎり、ぼくは成瀬巳喜男の世界を熱愛する。



ああ、いまのぼくはあんまり怒らなすぎるといつも思う、これだけのことをやられて。みなさんの普通の身体状態では自然当然な生そのものの快と安定がいまのぼくにはないのです。だからこうやって書くことによって自分を保っている。周りの邪魔がなくなる夜中はぼくの精神が集中していられる貴重な時間で、とても寝てはいられない。おかげで昼間は疲れきっています。それでも夜十二時に就寝するのはまだ見果てぬ夢のようです。


シベリウスを聴く前も、僕はかならずまず〈彼女〉の演奏を聴くのです。これはもう僕の音楽を聴く自然欲求の秩序になっています。