前節および前々節から、いま私は次の自覚に達した、即ち、私において、〈太く貫徹した意志〉は、同時に〈美意識〉に他ならない。またこれは深く〈孤独〉の定義でもあるだろう。私の諸々の根本思念が、熟した果実が落ちるように自ずと「単一」なるものとして気づかれてくる。〈根本感覚〉と〈根本意志〉は「一つ」なのである。これは「自我」そのものの定義でもあるのではないか。自我とは何と具体的で実感的なものなのであろうか。それはそれ自体意志であると同時に感覚(美意識)でもあるかぎり、けっして抽象概念でも恣意的意欲でもない。或る〈秩序意識〉を持っており、しかもそれはきわめて〈美的志向〉なのである。このことをわれわれは自己実感に深く密着して了解しなければならない。了解すべきは己れ自身なのである。既にこの〈美的秩序志向意識〉の明瞭かつ神秘な経験を、先生は戦後収容所生活で夢の体験として知った。そこでは「意志の作用はまったくなかった」と先生は言うが、その意志は恣意作用の意志のことであり、美意識は日常生活意志から状況的に解放されて前意志的な純粋さで、身体欲求にもとづくガストロノミック(美食)な夢想のなかで作用していた。〈美術者〉とは、常に「自分固有のもの」として経験されるこの〈美感覚〉に、決意して自らの〈意志〉を捧げた者であろう。そのことによって自覚的に己れの魂を求める道に賭けた者である。〈美意識〉という言葉には、強さの響きが、感覚が意志の衣あるいは鎧を纏(まと)った強靭な決意性が感ぜられる。そのような〈意志性〉なくしてどうして孤独の道が、ロマンティケルの情緒美から形象感覚の美へ、さらに象徴美において「神」の次元に触れ得る窮極にまで到る道が、持続的深化が可能であろうか。この道程すべてが、「自我」の定義でもあるのである。このような自我にとってこそ、〈生きられる時間〉というものがあるであろう。そのさきには、「神」への会遇があるはずだ。ヨーロッパ文明を貫いている本質は、この美的に高まりゆこうとする「高貴なる意志」であると、もっとも若い辻邦生氏も感得し記した。