(マルセルの音楽はこの欄で既に紹介した。7月27日「410 マルセルの音楽」 )
Gabriel Marcel 1889 1973 : 2ème partie (彼の演奏に接続できる。)
ほぼ同時期に書いた別の文も紹介する。
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マルセルの音楽に「神秘的かつ人間的な〈かなしみのなかのきよらかさ〉」を感じました。
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強い愛をもつ強い希望が神意にうち勝つとき
天の王国はある強制を受けるときに
それに従うのだが、それは強い愛をもつ
強い希望が神意にうち勝つからである。
だがそれは人が人を従えるさまとは異なり、
神慮は勝たれようと望んで勝つのだ、つまり
勝たしておき次におのれの善でそれに勝つのだ。
神曲 天堂篇 第二十歌 九四‐九九 いまダンテをひもといていたら所々に鉛筆で線をつけてあるところがり、この箇所はとくべつ印をつけていたのでそれなりの気持で読んだのだなと思いました。神の意思なるものがそのような許容性の深いものであれば神に反逆する人間はいないでしょう。(古川)
現在
現在のわたしの状況からして、どんな歴史上の偉大な存在の言葉も当てにできない、聖書の言葉すら当てにできないような、全世界、全次元への不信感にさいなまれ、絶対的に寄る辺のない孤独の自覚へ繰り返し突き戻されるような生活をしているのですが、そういう折、たとえ創造主が悪魔だとしても、仮に自分にとって悪魔に変じているとして、それならどう生きるか、やはり、自分の神の理念に従って生きることを私は意志する、そういう生き方しかできないと思うのです。そういうとき、実在の創造主と理念の神との分裂を引き受ける覚悟は必然的です。創造主の眼と意志は信用できない、世間社会の眼と意志が信用できないように。つまり、私をさしあたり生かしておいてはくれていても、絶対他者であることでは、創造主と世間社会は同一である、そこにいつも思いは至ります。そういう絶対的絶望を介さない「信」とは一体何ぞや、そう私は思っております。「信」とは、無から有を生み出すような、人間に特殊な必死で創造的な生き方のことです。ひとつの絶対的な存在論的開き直りです。そのような態度へと私は強制されています。古川
夜分にご返信ありがとうございます。そう思ってくだされば心強いです。「知と信」のアポリアに行き着きます。
「わたしにおいて神が真に顕勢態となる」という先日の文を私が思いを籠めて再読した瞬間、夜更けで静かだった通りからとつぜん笑い声がしました。笑いのあと「まだそんなことを言ってるのか云々」と聞こえるような喋り声が続きました。勿論、その場で確認すれば、歩きながら携帯で話しているような事情で、私の事ではないでしょう。しかしこういう同時性はただごとではありません。偶然を装った魔物の作用が働いていると私は解します。あまりにそういう現象が起るからです。魔物は自分が絶対優勢だと思っている。創造主が自分の側についているかのように。人間として無力な私はそれが癪なのです。こういうことは本題ではありませんが、こう組織的にやられると(そう私に思わせるように起ります)、公表しておきたくなります。
本題は「創造的な怒りというものがある」ということです。その思いを強めるために上の様な不可解現象が持続しているかのようです。自分で書いた12/12 03:19、12/13 20:10、そしてダンテの引用文から、私なりの神観を垣間見ようとしていました。またのちほど書きます。(古川)
今日は休みます
私の「相手」は、私の全活動の基本である身体を既に駄目にし、いつでも私の息の根を止められる状況に追い込んだので、後は時間の問題と哄笑しているのでしょう。傀儡と化した周りの者達は今になって、さも私が健康回復するように言っていますが、私の身体がこのままであろうことは、今迄の経過を自覚している私がよく感じています。あまり言うと私自身が傷つきますから敢えて申しませんが、正常な人間感覚ではない愚弄を私は受けています。どこに神がいるのかというのが正直な想いです。今ひじょうに疲れていますので、本題は昼間に持ち越します。古川
ご返信とお心遣いありがとうございます。本題ですが、これもわたしの個人的な読み取りですが、神曲の箇所は私は、神は人間の強い望みには、たとえそれがそれ自体は神の眼には神の意思にそのまま直結するものではなくとも、譲歩して力を貸してくれ、そのような寛容の道を通してその人間の個人的熱意を活かす仕方で御自分に引き寄せられる、という神観を語っているのではと受けとめました。このような寛容な愛によって人間を従えることこそ、全知の神にふさわしいのではないかと。そしてこのような神の愛の道はそのまま神自身の為す創造の業そのものであろう、と。なぜなら他のいかなる仕方によって神が人間に与えた自由意志と神自身の自由意志とが両立一致しうるであろうか、と。この神の創造の業を人間の側から人間主体的に見れば、神が霧の中に予感される潜勢態から、人間が自己の自由の実現の極限において出会う顕勢態へと、接近してくる、つまり、人間が神との会遇へ歩んでゆく過程でしょう。これは人間が己れの内なる神のイデーに促されて神を形あるものにおいてはっきり実感しようとする、その意味で神を創造しようとする人間的創造の過程としてもとらえられる。タルコフスキー「アンドレイ・ルブリョフ」の中で「才能ある者の後ろめたさ」という科白がありますが、その種の咎めの意識は、自分にとって本質的と思われる熱意・志に却って一意専心する創造行為によってこそ償われる、そういう道を神は人間に開いているはずだ…この信念がゲーテ的な理性信仰・自然への要請の意味だとも思われます。人間の側のこのような信念が果たして実在の創造主の意志・掟に合致するかどうか、人間には勿論知る術がなく、これはそれこそ「信と知」のアポリアに属することですが。少なくとも志のある人間はそれに賭けるしかない。そして最後の審判を待つか、信念の余り、怒りの火の感情で審判にすら反抗し、自らの神の理念を実在の創造主に優先させて貫き、逆に創造主は私の信念貫徹の中で全き存在へと自己創造しようとしているという逆説の信に生きるか・・私が「創造的な怒り」と言うのは後者の態度であり、これが、この魂的運動が現在の私の神観です。古川