不審に思うことがある。自殺したいと思うことと実際に自殺することとの間には物理的実行力の壁があり、この壁は大変な壁である。であるのに、実際に自殺する人が総数的に少なくないようだが、これが不審なのである。本当なのであろうか。五体満足な人間の自殺に僕は一片の共感もしない。身体という生きる基礎が駄目になった場合のみ、自殺は許容可能性がある。戦場で大負傷して苦しみもがいている兵士の死にたいという叫びしか僕には本当のものに聞えてこない。そういうもの以外は全部贅沢のたわごとで、実際に死ぬなど理解出来ない。体が正常で状況が死を強いるならそこから逃亡するだけのこと。体が正常なら意識はどうにでもなる。僕はどうするんだ。「集団ストーカー」共によって身体組織を変質させられているんだぞ。僕が死にたいと思うとすれば理由はこの身体問題しかない。それ以外のことは「なにくそ」と自分に言えばすべて済む。そうやって生きてきた。ただただ生きたい一心で。「生きる」こと、それなくして何も始まらない。「生きる」とは「闘い」だ。物理的に闘えなくなった時が死をかんがえる時だ。ものすごく単純なことだ。精神の基礎(根源という意味ではない)は身体という物質的なものだ。精神の働き自体は身体を超えていると感じるが、働きが外化され実感されるのは身体によってである。この精神活動が身体の不具化によって不能になる場合にのみ、死を思うが、精神の最小限が働きうる限り自殺はできない。僕は何処で精神活動をしているのか、あきらかに身体機能によってではない、身体を超えたものにおいて気づきがありそれを僕は書いている、それが精神活動だ。身体は媒介機能にすぎない。精神の自覚がある限り自殺はしない、ありえない。

明日は偶数日だからPCは開かない。

〔「480 最根底の問題」もしっかり読んでおくように。重要である。〕