ベルギー出自のアンドレ・クリュイタンス指揮で同郷のフランク作曲交響詩「のろわれた狩人」「アイオリスの人々」「魔神」「贖罪」を聴いた。特に最後の曲は私にもヴァグナー的雰囲気が感ぜられた。しかし音楽精神の根源があきらかに違う。全体的にむしろベートーヴェン的緊張が漲っていると感じた。音楽霊感の外的根源と内的根源のことを言ったが、フランクにおいてはこの両つが内的に融合しているともかんがえられる。だから雄大な外界のイマージュが同時に彷彿としてくるのだ。しかし麻薬的にそれに精神が融け込むのでは断じてない。しっかりと全体を魂的内面枠に引き据えている。外界イマージュが「魂に向って開かれた内面の窓」となっている。これがじつにフランス的であると私は感じる。クリュイタンスの指揮LPで私ははじめてベートーヴェン「運命」を聴いた。信頼して聴ける指揮者の一人である。目が疲れているので本を休めて時間を生かした。もう暫く自分の欄しか見ないだろう。


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新渡戸稲造が日本精神象徴として桜を押し西欧の薔薇と対置させたことはよく知られている。これを私は当時の時代状況における日本国家の自己主張の必要性と重ねて認識している。今ならもっと別の語り口があるであろう。具象物の比喩はあくまで相対的一般的意味のものであって、人間精神の普遍的課題が問題となる次元では通用しない。それだけのことである。因みに私も桜の良さはわかるが、山桜がいちばんよい。あじわいぶかい。あれはあの頃だけ咲くのが季節の象徴として美しいのである。だから同時にそれ自体としてはものたりなさを感じるのも事実である。人間普遍を求める人間個々人が何の花を個人的に愛してもよい。そういう前提で私の個人的趣向をいえば私は薔薇が好きである。何と比較してということは、美の本質から、考える必要は無い。美は本質的に超比較的である。それだけのことである。これに尚なにごとかの意味を付け加えようとする者は今では正気の気狂いと見做されるだろう。新渡戸の説は承ったという意味で承認するが、この承認は同意という意味ではない。

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パリで最上階の屋根裏部屋を借りていた時、元煙突の天窓に鍵が付いていなかったのを、借りる当初から気になっていた。「泥棒が入るかも」「大丈夫ですよ、何十年も一度もそういうことはありませんよ」。ところが或る日部屋にいると、がさごそとかなり大きな耳慣れぬ音がしばらくしたあと、私のいる部屋のドアがそうっと開き、その泥棒君らしき者が入ってきた。「あ、おじゃましました」。私はてっとり早く彼の面前へ歩み寄り、「あなた誰?何処から来た?誰があなたを頼んだ?」とたたみかけた。「サンディカ(組合)に頼まれて、TVのケーブルを引くためです。それだけです」。「どうやってこの部屋に入ったの?」「今お見せしましょう」。そう言って彼は私の見守る前を、入ってきた煙突をまたがさごそとよじ登り、屋根へ出たきり戻ってこなかった。しばらくして玄関のベルが鳴り、出ると、ジャンパー姿の大勢がいて、「今、こんな風貌の男を見ませんでしたか?我々は警察です」「ああそういう人ならさっき煙突から出てゆきましたよ」。「そうですか、それっ、追いかけろ」と急ぎ階段を下りていった。その後どうなったか知らない。何か映画撮影の一齣に居合わせたみたいだった。大家氏は天窓を鍵どころか固定して開かないようにしてくれた。