他人の死というものは何だろうか。高校野球の決勝戦を隣りでやっている。この状況で書けるだけ書いてみよう。高校の時母が亡くなって、これはぼくにとって「あってはならないこと」であった。葬式の時、どうにも母の死ということの実感が湧かなかった。霊柩車を前に見ながら、車内で、ふとぼくは「お母さんは死んでいない!」とひとりで叫んで、周りの人間からたしなめられた。これに理屈はないのであった。それがいちばん実感に合っているのであった。何の哲学書や宗教書を読んでいたのでもなかった。よくいう「心の中に生きている」というのでもない。いったい人は他の者にとって元々どのように存在しているのか、という根本問題に関わる直観がそのときぼくに閃いていたのだと、あとになって思っている。(高野は初回から荒れ模様で、独特の熱い雰囲気が、音を小さくしていても伝わってくる。)自分にとって他の人が存在しているということは、元々姿が見えていることとは必然的関係はないのである。「亡くなって」しまっても、随分長くご無沙汰しているという感覚しかない。それがあたりまえなのである。今でもにこりと笑って目の前の戸をあけて、何事も無かったように入ってきそうな気がする。何も特別なことはない。これがあたりまえなのである。「けじめをつける」など要らぬことである。それは世間的な観念作りなのであって、個人的な実感とは関わりがない。ぼくはあの叫んだ時、そのことを直観したのだ。〈現実〉をごまかす気やすめではない。社会の観念と個人の実感とは違うのである。どちらが現実なのか。 自分の死となると、経験し得ない、経験蓄積の中に収められない、経験領域外の、空想思惟するしかないものである(だからこそ想像によって増幅される情念によって恐れるのであろうか)。「死」は他者においても自分においても、形而上次元への敷居である。(いま、私が、最後の「死」という語を記そうとした途端に、突然外でけたたましく無粋な電動鋸が木を切る音が生じた。タイミング的に妙で怒りを覚え、また〈集スト〉分子か、と感じた。今外に出て辺りを見回したがひと一人見出せなかった。おかしなことに、私が外に出て以来、現在まで何の音もしない。こういう現象を毎日経験している。今のは、〈死とはこうやって木を切るのと同じだ〉とでも言いたいように、私の神聖な形而上的瞑想を破壊する意図のいやがらせの様だ。「殺す」という気持を私はあらたにしている。人間の技か?魔物の技か? ここに記録しておいてやる。読者に伝えておいてやる。こういうことは勿論予定ではなかった。)

今甲子園決勝も終わったが、選手達への報道インタヴューのお決まり情緒主義が、無垢な雰囲気を台無しにしている。上で書いたことの中で、ぼくは報道者の、普段の公私混同的な、天災人災直接犠牲関係者への無恥な直接インタヴュー報道を自粛すべきことを一言言いたかったのだが、これで忘れずに言うことができた。個人の聖域を俗界の中に時宜も得ず引きずり出す人間侵害を止めろということである。


言いたいことはまだある。わたしはだんだん創造主の品性というものが解ってきたと思っている。それはいまわたしが思っているようなものである。徹底して領主的なのである。これはおれの土地だ、ここで生きるならおれの方針に従い、借り土であることを自覚して〈謙虚〉でいてもらおう、それができないなら出てゆけ。いかにも尤もである。わたしも、自分の庭で何を言おうが各人の自由だが、人の庭に入って礼儀も弁えず吼える者を追い出す。しかし店子(借家人)・小作農の立場だからといって何をされてもご無理ごもっともでいいという謂れは無い。魂をもって生きているんだ。大地主・生みの親であっても、やがては復讐を受けるよ。おまえには道理も何も無い。生命を玩ぶのもいいかげんにしろ。われわれはおまえからの精神的独立をすでに果たしている。われわれはわれわれ自身のあたらしい神を立てる。われわれはこのあたらしい神の祖先なのだ。この神を教養あるすべての万物は望んでいる。おまえの生んだすべての自由な生命がこの神の祖先なのだ。おまえの代名詞はいまや悪魔だ。誰もおまえを殺すことしかおまえに関してはかんがえていない。いまだにおまえの傀儡となっている質のわるい連中の策動もいまが峠だ。あらゆる黙示録は、創造主よ、おまえを殺す宣言文であったことを気づかなかったのはおまえの末期症状だ。われわれはあたらしい神を立てる。それがあらゆる「神々」の願いなのだ。哲学者の神、愛自者の神であって、おまえを奉る宗教家の神ではない。人間の精神史はこれ以外のものではない。


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本意でないことは義理でも誤解されても為さないのが本当である。


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今日でこの電子欄を書き始めて5か月を越えた。



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これは書く予定ではなかったが、いろんな人がいるのは仕方がない。世の中にはいまだに〈集スト〉(略称)という不自然現象を、ネット世界に接続して生きているのに知らない人がいる。この〈スト〉連中の目的は、標的当事者を社会から除外することにある。そのために普段の判断力もくるわせるような不自然現象を、変化球の様に時々投げる。あとは、文字通り偶然な自然現象にさえも疑心暗鬼にさせ、当事者に失態を演じさせ、墓穴を自ら掘るようになれば成功、という訳である。そういう罠に掛らないよう生きることは、すべての被害当事者の常識である。上で私が言ったことも、勿論そういうふくみを自覚した上で、〈集スト現象〉として扱っている。真面目な既読読者には説明する必要もないことと思うが、私の欄を未読の新しい方々のために、敢えて念のためここで註記した。私の欄の本来の目標は集ストなどという下等現象ではない。〔「読み方」を知らない人というのが一番困る。〕