感謝という言葉でこれに相当する感情あるいは意識が表現されるようになったのはどういう文化歴史的経緯があるのか勉強していないが、西欧哲学では古代ギリシャ以来主題的問題にはならなかったようである。そこでかえって憚ることなく自分に即して反省してみることができる。感謝の気持は最も直接には「ありがとう」という言葉で表現される。この意味では感謝の観念をもたない文化も民族も皆無だろう。「恩寵に相応する主体の態度」として「謙虚」が実質的な感謝の表現であるかもしれない。己れを低くしなければ高い処から良きものは流れて来ないのである。これもあらゆる文化民族は知っている。だから実質的にあらゆる生活領域で感謝に相当する観念あるいは態度が働いている。愛もまた所有欲にならない純粋な段階においては感謝を本質的にふくむ。「他に心が開く」ことが共通本質なのだから。形而上的アンティミスムの理念における愛(自己愛・他者愛)においては所有欲は原理的に排除される。だから「感謝」に実は満ち満ちているのである。それは当然のこととして遍在しているから、問題主題として意識されることすらない。自己が自己自身の魂を愛することにおいて自己自身への感謝があり、他者の魂を愛することにおいて他者への感謝がある。ここでわたしの理念において特徴的なことを言おう。美を愛するとき、美が存在するだけで感謝なのである。ぼくにとって高田先生の存在そのものが感謝であり、ある人あるものに接することができること自体が感謝である。愛することは見返りを求めないことだと言われるが当然である。およそ愛することは恩義とは関係無い。相手の存在そのものが感謝の当体なのであり揺るがぬ軸なのである。そうでない愛は信用できない。この純粋な愛と感謝の前で、恩義はどこにあるか。存在の場すらない。およそ感謝と恩義を混同せぬ者は幸いである。純粋な感謝は形而上のものであるが、恩義(しばしば義務的感謝を強要し不純に拘束する)はそうではない。先生の言う「真に所有しようとする愛」は、当体を物的に所有しようとする欲とはおよそ極端な対比にあり、その彼岸にある。愛欲と愛に関し説明抜きでわれわれは各々の観念を形成し得るように、恩義と感謝の各々の観念をも判明にし得なければならない。当体の存在そのもののゆえに愛し感謝すること、これが形而上的アンティミスムの態度の根本に存する。そうでなければいかなる形而上性も無い。形而下的密着の愛欲と恩義は、いかなる親密(アンティミテ)へも導かない。此の世に在ること自体が常に人間を混乱させるものであるから、言葉の背後にある二義性(両義性)に配慮することは、われわれが真の自由の喜びを得てゆくための援けとなるのである。
二つの「ありがとう」があることになる。存在へのありがとうと、行為へのありがとうとが。前者を純粋な感謝としても、後者を不純な感謝あるいは恩義の表現とするのはさすがに行き過ぎのように思われる。
ぼくは、人の行為自体に感謝する気持が根深くない。そのときはありがたいと思うが、一過性である。たいてい、人の存在と行為とは分離して受けとられている。その人の行為と存在とが一つになって感謝できる場合はそれ自体とても幸福なことだと思う。むしろ、してもらった行為への好意が相手の存在への好意に移り、もう行為など二の次で、何もしてもらわなくても、持続的にその存在そのものが大事になるというのが自然ではないだろうか。そういう人の存在が自分の内で生まれる分だけ自分が豊かになる。つまり相手の存在への感謝となる。自分の心がその分開くことへの感謝(もっともそういうふうに分析的に思っていなくて直接な感情としてあるのだが)である。行為だけで心が感謝で相手に開いてしまうことは、特に窮状の場合あるが、理性的吟味が欠けて危険な結果になることもある。
結局こういうことだ。行為の根本動機など穿鑿しきれるものではない。行為自体は愛や感謝の根拠にはなり得ない。カントはそういう議論の上で、人格(善なる意志の当体として)のみ価値あるものであり究極目的であるとする人格主義に立った。これが彼の道徳形而上学説。彼が形式主義的に開明してみせた本質を、愛と感謝の純粋性という内実でぼくの議論は満たしてみたと言ってもいい。
二つの「ありがとう」があることになる。存在へのありがとうと、行為へのありがとうとが。前者を純粋な感謝としても、後者を不純な感謝あるいは恩義の表現とするのはさすがに行き過ぎのように思われる。
ぼくは、人の行為自体に感謝する気持が根深くない。そのときはありがたいと思うが、一過性である。たいてい、人の存在と行為とは分離して受けとられている。その人の行為と存在とが一つになって感謝できる場合はそれ自体とても幸福なことだと思う。むしろ、してもらった行為への好意が相手の存在への好意に移り、もう行為など二の次で、何もしてもらわなくても、持続的にその存在そのものが大事になるというのが自然ではないだろうか。そういう人の存在が自分の内で生まれる分だけ自分が豊かになる。つまり相手の存在への感謝となる。自分の心がその分開くことへの感謝(もっともそういうふうに分析的に思っていなくて直接な感情としてあるのだが)である。行為だけで心が感謝で相手に開いてしまうことは、特に窮状の場合あるが、理性的吟味が欠けて危険な結果になることもある。
結局こういうことだ。行為の根本動機など穿鑿しきれるものではない。行為自体は愛や感謝の根拠にはなり得ない。カントはそういう議論の上で、人格(善なる意志の当体として)のみ価値あるものであり究極目的であるとする人格主義に立った。これが彼の道徳形而上学説。彼が形式主義的に開明してみせた本質を、愛と感謝の純粋性という内実でぼくの議論は満たしてみたと言ってもいい。