意識的にどういうものに感謝するかは、各人の本音の志向がどういう次元に向かっているかによって各人において異なる。自分の志向に集中している程、それははっきりくっきりとしてくる。志が高くて同時にあらゆるものに感謝し得るというのは、余程恵まれた者であろう。たいがいは、自分の志と周囲の志向とはぶつかり合い傷つけ合って、全方位的感謝どころではない。現実においては〈自然な感謝心〉は潰されてばかりいる。

宗教はルサンチマン(復讐心・怨念)だというニーチェの意見はかなり当たっているかも知れない。歴史を持たない者達の、歴史を持つ者への嫉妬、まさに「持たざる者」等の「持てる者」への羨み、という意味で。かつて、どこか僭越失敬だと感じていた者、そのくせやっかみ言を言う者が、最後に自ら宗教信者だと告げた。一方でなかなかよい人だと思っていたのだが、だからぼくの感情もちぐはぐだった。相手が分裂していたのにほかならなかった。感性に優れたものがあるだけではだめだ。思考(反省力)がまっとうでなければ。それによってはじめて「人間」に留まる。人間存在の根源的原理から、宗教は巧みに服従原理を引き出す。「感謝」だけでは悪魔によってすぐ奴隷にさせられる。宗教が絡むと人間経験に不快な記憶が混じる。繰り返された経験だ。〈感謝〉や〈信仰〉を少しでも失うことを怖れて自立を嫌う人々だ。

「反省」というものはいつも立脚点が事後(後時)的だ。事の最中の行為や判断をそこからどのくらい正当に判定出来るのか。すると、最もリアルな〈現在〉意識こそ最も深い闇だ。その闇から、過去をどのくらい正確に照らせるというのだろう。「判定」に〈責任〉が持てる者が誰かいるのか。

このように「反省」自体を反省することによって、判断行為の難しさ、自己責任性を知る。このような反省そのものの限界意識から、主体的決断によって自己創造する行為が意識の中心になるように、自己誘導することが大事なのだ。主体性のかけがえのなさを意識すること。このような自己内での意識運動自体が、〈法への偏重〉から価値意識の均衡(バランス)を主体の側へ取り戻すこととなるのだ。

今は感性の時代だ。「われ思う、ゆえにわれ在り」、「人間は考える葦である」、といった言葉が人気がなくなって久しい。感性と思考の統合に今こそ真剣であるべきだ。感性と思考のどちらが欠けても『調和』は果たせない。

みな、生の基盤の上での話ばかりだ。ぼくはそういう基盤無しで話をしている。


主体的に休息するのも本来の対象に向き直るのも決断である。