書ききれもしない記憶を、思い浮んだ時が機会と思って書き留める。ジャン・コクトーの映像作品「オルフェの遺言」で、印象深い「目」の演出表現が際立っているが、嘗て最初にあれを観たとき、あのような目の現象が実際に在るとは勿論想像していなかった。しかし現実に在る現象なのである。それを経験したのは、今の集合容喙現象と関わるようになる何年も前、この今の現象とは全く関係無い、独自な現象としてである。それはあの作品の「目」そのものだった。コクトーは、ぼくと同じ経験をしたに違いない。それを作品に、多分〈未知の神秘〉の象徴として再現したのではないかと思う。ぼくの経験した「目」は、あの演出された作品中のものより、はるかに強烈で、ぼくはそれに対抗出来なかった。太陽の様な光となって現前し、完全に見ていられなかった。生きている普通の人の目がそうなったのである。人間は実はとんでもない力を持っているのである。〈念力〉なんていうものはだから直接に承認できる。あとで、あれはコクトーの作品の目そのものじゃないか、と気づいた。光となって放射(殆ど爆発)する直前の目が、彼の作品に表現されていた。あれから推すると、人の感覚機能というものは、物理的条件の前に霊的条件があって、この霊的な力は本来物理的条件を超出し、物理的条件はむしろ霊的力をその内に引き止めておくためのものと見做し得る。つまり「制約」の意味が逆なのだ〔ベルクソンの発想〕。「目があるにも拘らずわれわれはものを見る」(小林秀雄)と言わなければならない、というわけだ。今や、〈念〉は機械を使って〈拡張〉出来るようにまでなっている。とんでもない時代に迷い込んでしまったものだ。自然性が消失して或る意味で当然だ。