初めてのパリ旅行におけるパリの印象は、およそどんな予想も現実の独創性をそれとのコントラストにおいて際立たせることにしか役立たないことを実証するものだった。地も建物も乳白色の石で成っている材質的連続性の光景は鮮烈で、そこで観る馴染みのフランス絵画の、独自の色調とそれまで思っていたものもまたその現実の街そのものの素材的色調の連続のなかに在ることの発見だった。(多分この連続性は一方向的なものではなく、人間意識がそこに謙虚に介在し苦労して成り維持されている双方的なものでもあったろう。)外界と芸術的内界とがぼくのなかで融け合った不思議な恍惚経験だった。外界がぼくの意識を触発し目覚めさせた。凱旋門の頂上からパリの街を見晴らしながら、この街との「縁」(アフィニテ)を感じた。動物さえ自分の〈人生〉を生きているのを感じた。そして夜の照明に自らの存在を示す13世紀来のノートル・ダムの威容(表面塗装される前の多分最後の観る機会に会った剥き出しの、時の風雨に晒された石壁の威容)の記憶をぼくは自分の原風景のように忘れない。「歴史」に立ち会ったとはこういうことか・・ 「過去」が「現在」に「生きて」いた。これが「都心」なのである! 

ここから何年かが飛ぶ。再び「南」からパリへ。ぼくは一人で歩いていた、生まれてはじめて訪れる「世界的巨匠」の邸宅へ。狭い昇降機の箱の鉄の手動格子を自分で開けて入り閉める。かつて武者小路実篤、梅原龍三郎らが、高田先生に伴われてこれに乗ってあの巨匠との面会に臨んだのだな・・ ぼくもその一人となった・・ あの薄暗い中を昇ってゆく瞬間、忘れない。ぼく一人。イザベルさんが晴れやかににこやかに戸口で待っていてくれた。