[384 芸術の人間主義・手紙244]のように自分では最もよく書けたものの一つのつもりのものにかぎって評価がつかない。黙ってうなってくれているのかも知れないが、ルオーの心境がわかる気がする。純粋に自分の中から出た極致のようなものは、大方の他者の理解を超え、自分でも客観的に断定的評価は出来ず(ぎりぎりで生み出した冒険だから)、だから神ですら分からないかもしれない。そういうときには自分を後押しするために自己評価する。
 コメントを再開してみたが実が無かったり嫌になったらまたすぐ止める。

否定的エゴイストに二種ある(これまで別々に言ってきた)。世俗的エゴイストと神学的エゴイスト。どちらも魂への非同情が特徴だ。人間関係における自分の立場を優先し、自分が安心立命できる思想を優先する。既に述べたので確認である。 真の自己愛者をエゴイストと敢えて反語的に言うこともある(先生が「自分のために血を流す(本物の)エゴイストになれ」と呼び掛けるが如く)。 自分の経験実質を欠きつつ自分の信奉する思想に従って他者を判断する者、経験実質に拠っていても上滑りな独断的思想形成によって他に教えようとする者は、傲慢者と言うべきだろう。 いずれも自分と向き合う姿勢が足らず、それでは徐々に自分の魂と結ばり心によって自分が理解されるに至らない。

日本は蹴球(サッカー)で世界に勝つつもりなら(わたしは基本的に勝負事には関心ないが)、本当にラグビー選手の身体と精神を使った方がよいと前から思っている。心身の突進力だ。試合中に立ち止って考えているようではどうしようもない。もう一つ、目的行動と常に合体した知性力(考える力)を培うこと。真に考えることは無為の中にではなく行動そのものの中で働く。選手を自衛隊体験入隊させてもよいかもしれない(実状に合わない暴論なら撤回する)。形而下次元で勝つつもりならそのくらいのことをしなければ、観戦者に失礼だ。国民の後押しを期待するなら先ず感動するプレーをさせることだ。以上、選手自身が国民から何か厳しいことを言ってほしいそうなので、敢えて管見を述べた。