PCを寝る前には開かないことにして自分の書いた本を繰っていた。前節の最後で記憶のままに先生の言葉を引用したが、それを確かめた。「思想は人生と同じで様々の経験が層となっている」。それでよいのである。ぼくの本の最後に収めた《高田博厚における「触知し得るイデー」》の最初の部分に原文を引用している。この本はぼくが溺愛する本である。これを粗末にしたり軽々に評したりする者は、ぼくがそれを知らないうちが華である。知れば許さないから。ほんとうに心と魂が感じられる本であり、これ一冊で人類の知的遺産の意味がある。ぼくがこれを書いたからその内容の馥郁とした芳香は手にとり目の前に置くだけで精神を包む。ぼくはその内容を知っているからだが、手元にあるだけで人の精神を高める癒しがある。ぼくがありのままのぼくのこの本にたいする思いをここに述べるのは、ぼくがそうしなければ誰もそうしないからである。だが感覚というものは普遍的なもので、ぼくが本心そう感じ思っていることはかならず同様に思い感じてくれている人がいるということである。世の虚無と敗北の文化案内に倦む人はぼくの本の存在と内容に満足する世界を見出すだろう。本物の世界がここにある、と。まず最後の短論文《高田博厚における「触知し得るイデー」》を読み、その豊かなイデアリスムに恍惚としてほしい。これが最初に形になった記念碑である。読むときは内容に観入しつつじっくりゆっくりと。苦労や高揚なくしてぼくは一語一文も書かなかったのだから。なぜぼくがここまで言うか。本そのものから納得してほしい。この豊かさと真の文化の芳香を前にしてぼくはそのように言う自分をおさえることはできない。ぼくの本に本質的に縁の無い人種の蔵からぼくの最愛の本たちをひとつでも多く救い出して、然るべき人の手元で本が安らげるようにしてほしい。ぼくがこういう状況になる前の、生まれてから正常に己が人生を歩んだ充実した精神がついにその豊かさのままに産んだ「人間の本」である。

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