コメントを「受け付けない」に設定したら、以前にもらったコメントも全部非表示になった(ぼくがそうしたのではない)。個人的な気持が主の純粋コメントと受け取れるものが本当に少なくて、殆どビジネス広告がらみの印象が主のものなので、当初は、スポンサー付いてくれたかな、と思って容認していたが、遂に応対するのが嫌になったからだ。自分に向き合う妨げになる。心の感じられない言葉はほとんど無礼に等しい。むしろ黙って読んでもらって頷いてくれるほうがよい。そのような理由で「Bien!」だけは復活させた(共感してくれる読者には感謝している)。 「心の感じられない言葉」と言ったが、ここから別の次元に話が飛ぶ。そのような言葉の応対を過去にじつによく経験した。愛想のよい人間ほどその種のものが多い。学のある、と付け加えよう。中身は高慢でふくれあがっているのである。偽の誠実さなのだ。世の人間というものは、判断形成をいかにしているかで品格が決まる。だいたいが無責任な裏評判に乗っかるだけで自分の責任ある判断ではない。その怠惰はおどろくべきものだ。しかし学のある人間がこれをやっているのである。およそ「人間のいとなみ」が自覚されていないからそういうことになる。「謙虚」とはどういうことかを会得していない。ぼくの経験を言えば(哲学畑のことだが)、いまでもぼくがヤスパースびいきでハイデガー嫌いなのは、ヤスパースの方を評価するほどの意識の人には、この種の高慢がさすがに少ないからだ。逆の傾向の人でこの高慢をぼくが経験しなかった人は(殆ど)一人もいない。ぼくには、「人間」に興味を感じられなかったり愛を懐けなかったりする思想家を勉強することはまず不可能だ。とくに生涯の一時期をヤスパースと一体になって過ごしたから、いまでも、ヤスパースを自ら通過しないでヤスパースを軽侮するような判断を感じると、ぼく自身を侮っていると受けとめてしまう。ぼくは自分に打ち込むことを生活の第一義とむかしから心得、実践してきたから、周囲との折り合いは(これは周囲が勝手にそうするのだが)必ずしもよくなかった。まあ古川君だからと暗黙の容認が一方では自然にできていたが、すべての人間がそう聞き分けがよい訳ではなかったようだ。こういう言い方をするのは、ぼくには全く他意・悪意などあるわけはないから、だいぶあとになってはじめて、あの人はどうしてぼくにたいする言動の調子をああ急に変えたかなあと思っていた理由がふと思い当たるという経験をしているからだ。何のことはない、当人には関係無いぼくに関する勝手な裏世評に乗っかっただけだったらしい。ヤスパースをぼくの前で公然と軽侮してみせる人になっていた。別の最近の話だが、ぼくがさんざん自分の経験した不自然現象を説明報告して、真面目に受け取ってくれていると思っていた人が、最後に全く真に受けていなかったことを知ったときのぼくの腹立たしさと、その人の無責任な高慢さ(やはりここでもぼくは最初から感じていたことを自分に隠していたのだった)にたいするぼくの言いようのない侮蔑感といったらなかった。ついでながら、この人も腹の底でヤスパースを軽侮していることが感じられていた人だ。 前置きがだいぶ長くなってしまったが、ぼくはいま、或る症状がなかなか治らなくて(ぼくの昼夜逆転の生活の疲れから出たと思う。こういうことはまずもともとのぼくの体と状況だったら考えられない)、いまの不機嫌に見合った不愉快な思い出にも形をあたえておかないと、上でテーマにした「わたしのパリ・欧州」の話に入るのにつっかえてしまうと思ったので、先に書いた。 思想的なことを書こうとすると、時を選ばないインスピレーションに振り回されて昼夜逆転の生活がなかなか直らない。回想記ならわりと規則的に書けそうな気がする。