写経をつづける。ピカソにたいしてと同様、親和感はないが、世に行われる余りにたやすい紋切り型のサルトル批評をぼく自身は繰り返すことなく、先生の思索の本質に耳を澄ますために。
 
 《サルトルのきわめて野心的なそして反抗的な考え方について、それに与(くみ)する与しないは別として、深刻な絶望的な根拠は私は充分理解することができる。私達はいずれも思索の出発に於て、「自由」を疑い「与えられた自由」に謀反する権利を持っているのであるから。サルトルは形而上学と唯物弁証法を結びつけようとする、今日の哲学者のいずれもが導かれる課題の上に図(シェーマ)を引こうとしている彼は大変大きな「企画(プロジェ)」を持っている。けれどもその複雑化された理論の奥に潜む動機は、真剣にものを考える者に共通な、明白で簡単な怒りに在る。「プロレタリア・デモクラシー」の名による専政と圧迫の嘘と、「神の愛」による歴史的な「大穴(アンドュルジャンス)」〔免罪符・悪を神学的に大目に見ることであろう、神のにせよ人のにせよ〕の偽りに反抗している。そのいずれにしても私達はこの衣裳を一旦脱ぎ棄てなければならない。ここでは誰もサルトルの誠意を疑わないであろう。規定されたあらゆる「秩序」を、一応破壊しないでは、真の「自我」は求められないであろう。》

何の註釈が要るとも思われない。ぼくもこの点完全に同意する。この〈形而下・形而上〉二面の「嘘と偽り」は、いまも大手を振って歩いている。
愛と同様、明白単純で深い「怒り」(反抗)が真剣な思索の「動機」(根源)であることをここで確認できたことは率直、収穫である。