《カトリック的「神」の哲学や理論には私はまだ大変遠いかもしれない。またシェリング的な「見神論(テオゾフィー)」が思索の要素となるにしては、私の意識はもっと近代的な分析や認識方法を教わっているのであろう。けれども賜物なのは、合理的であろうとする意識の領域から「神」に関わるものを排除してゆけばゆくほど、「神」がカトリック的に近づいてくることである。》

先生はここで随分「カトリック」に腰が低いように見えるが、他所では、自らの境位を意識してキリスト信徒一般のそれから隔て、単純に〈混同〉されることに釘を刺している。思弁的な「神」への接近にも批判的なのは、観念論後の科学主義を経たヤスパースの実存的観点に近いのであろう。しかしそこで「神」への直面をヤスパースのように決定的な状況での〈決断〉に一挙に賭けるよりも、持続的な日々の労働を通して徐々に「近づいて」ゆくことのほうに手堅い〈神秘への具体的接近〉の道を感得した(「ルオー論」参照)。この点においてまたフランス人哲学者マルセルの「存在」会得のほうに本質的に親和的であると感ずる。「神秘をプロテスタンティズムにも探したが見出せなかった」として最終的にカトリックに〈帰依〉したベルクソンの場合を想起しつつ、ここでの先生が「カトリック」に持たせた意味合いを忖度できるように思う。(ベルクソンの帰依についても先生は独自の境位から捉えているのは注意を要する。これについても拙著で論じた。)