ぼくが直接的に感得したと信じる創造主の本性を記しておこう。創造主の力と判断基準と関心は徹底して「形而下世界」にあるのである。「心」などというものましてや「魂」は、〈創造主〉(此の世の支配原理として象徴的にそう呼ぶ)にとって、存在せず、無なのである。いわゆる霊的世界も「形而下世界」の中に在るのである。〈創造主〉とは「形而下世界の原理」なのである。形而上的精神性などは、多分、「役に立つ」限り黙認しているであろうが、それが自己自身を主張し始めるや否や、自らの生命的な盲目的衝動力(全能全知もその〈統制下〉にある)に従って、潰しにかかる。そのとき、あらゆる精神的に半睡半醒な無自覚的人間はその操り人形・走狗となる。その限りで、〈超自然的〉な神通力的・透視術的な力を授けられたように意識するらしい。そして〈真理〉に目覚めたかのように自信づくらしい。その実、本人が自ら築いてきた人間性・真心は消し去られ、〈死せる魂〉になっているのである。この、ぼくが「目撃」したことを、読者に信じて欲しいなどとは敢えて言わない。以前述べたが、そんなことを言うのを思いつくには、ぼくの「経験」はあまりに切実かつ明々白々で、ぼくにして一時混乱せざるを得なかったからである。 こういうことをこの時期感覚で述べるのは本意ではなかったが、331で述べた内容があまり関心を惹かなかったらしいのがぼくには率直かなり意外だったこともあり、《内的自由》の本題に移る(なかなかその状態にならない)前に、ここで「いま自分にできること」として、〈創造主は形而下世界の原理〉という腑に落ちた観念を述べておくことにした。