328の〔附言〕で《自我の内的自由》という先生のイデーに言及しておいた。そこで、この、〈自己が自己自身に向かう行動〉と不断に一つではあるが、本来的自由の当体としてこの行動の根源であり、その意味でこの行動に先立つ〈自我の「存在」の自由〉‐これをぼくは先生の言う「自我の内的自由」と解するのであるが‐、この自由に人間の自由が結晶・収斂して自覚されざるを得ない事情として、行動としての自由は自らの自由性を立証出来ないことを言っておいた。深層心理学的な動機メカニズムの詮索による行動の必然性の嫌疑、この必然性の可能性をわれわれは否定出来ないし、これを否定して行動自体の自由性を擁護・確信することは、〈自己の存在することとしての自由〉にとって本質的前提条件となるような案件ではないというのがわたしの判断である。このような判断にわたしを至らせたのが、わたしの周囲(この範囲は不確定である)における近年の〈不思議現象〉であり、この認識は毫もわたしの精神状態の偏りによるものではなく、わたしはこの認識を現象そのものから強いられたのであることを確言しておく。わたしはこの現象を具体的に立ち入って述べることを慎重にしてきた。精神的に殆ど創造的でなく、わたしのような精神的位階に己れの本質がある者がそれをするのは似つかわしくないという意識からだけではない。早々と具体的にその現象を述べることによって、読者の一部にでも或る種の予断と偏見を生じさせることを、わたしは何より嫌ったのである。ゆえに、世間一般で流布されているこの種の現象の呼び名もわたしはこの電子欄では一切使用しない。わたしの本来の自己世界とは水と油の如く、その響きに親和性が無いからである。(「ブログ」という響きもわたしの世界と不釣合いなので造語で電子欄と言っている如くである。)独自に〈集合的容喙現象〉と言っている。この現象が起る根拠についてわたしなりに推量している。共時性(シンクロニシティ)がその性質のポイントだと思う。当初、わたしも因果性で解釈していた。この電子欄を始める前の時期に、わたしも遅れ馳せながらこの電子情報網(ネット)の世界に触れて、既にこの種の現象が周知の社会現象化していることを驚愕とともに識り、一応の諸現象の呼び名やその現象の諸解釈も識っているつもりである。むしろわたしよりも読者諸氏のほうがお詳しいのではなかろうか。ところで、因果性の観念に基づく諸解釈ではどうも対応出来ないというのがわたしの気づきであり、共時性の観念が必要であること、そしてこの観念の承認と同時に、集合的無意識のような深層心理学的存在を想定しなければならないことに想到した。われわれは各々自由に発想・行動しているつもりで、実はこの存在論的な一つの集合的組織体から発想や行動動機を吹き込まれ、それによる〈機縁〉の中で生きているのかも知れないのである。そしてこの深層集合体にはわれわれのあらゆる思いや行為が記録され刻み込まれているらしい。そういうことを想定しなければ、偶然性の度を明白に超過した〈内外一致〉の共時性現象は起り得ない。(つまり個人が己れの内面でしか知り得ない思いや行為に意味的に対応・一致する現象が外界で寸時の隙も無く共時的に同時に起り、当事者はそこに何らかの因果関係の存在を断定することを心理的必然性をもって強いられ、結果、精神的混乱状態に陥る。)単純には言い尽くせないこの不可解現象がさしあたりわれわれに迫らせる問題は、それではわれわれの自由と独立と尊厳は何処に確保され得るのだろうかということである。たとえ深層的にわたしのすべての行為が規定されているとしても、それでもわたしが固有に存在するという充実した自己意識、これしかないと思う。人はここで、唯一の実体としての神の必然性から個々の人間の自由をも導き出したスピノザのしたたかな形而上学的存在論に想到することもできよう。必然と自由の一致。たしかにおぞましい仕方での現状における確認ではあるが。しかしそのようにして「自分」に追い詰められる機会を得ている。このような状況が生じようと生じまいと「人間の真実」は変らないのだから。