仏陀とイエスも、邪魔する悪魔を経験し、それに勝ったのだったな。悪魔は特別な仮定的存在ではない。盲目的な生きる意志としての此の世の実相・本音そのものなのだ。それは此の世とともに不断に存在して、「人間」を否定すべく全能全知を常に働かしている。最近それが活発になったようだね。
〔この悪魔すなわち此の世の生ける支配原理が〈内外一致〉の共時性現象を起し得るほど全能全知だということは、カントの論議を持出すまでもなく、事実的行為の次元においてはわれわれは決して自らの自由を証拠立て得ないということを示すとぼくは思う。われわれの自由は、既にこの電子欄で言った如く、内的に存在すること自体の自由に結晶されると思う。この自由はきわめて純粋観念に近い《「自我の内的自由」》として高田先生が述べているものだとぼくは想到する。この想到の機会に、これを言表している先生の随想『経路』(1949.8、『フランスから』所収)に触れることを試みたいと思う。〕