熊谷守一にはむかしからその特別な画質と人間にひとつの尊重を感じてきた。彼を嫌う人はいないと思う。彼は自分の画業、道のために他を犠牲にすることは出来ない人であった。うまい絵を描こう、という欲は無かったはずである。彼は見習ったり真似たりできる人ではない。彼のような存在に面しては、彼が自分の生感覚に忠実であったように、われわれ自身が自分にどれだけ根源的に正直であるかと問うことしかない。そこでどうしても自分を行為に駆るものがあればそれは運命であろうし、行為を相対化するものがあればそれもまた自分の本質をさらに掘り下げる契機となるだろう。彼、熊谷にあっては天与の画才と彼の人間とがかならずしも一致しなかったのかもしれず、それでも描くものに、だからわれわれは無執着の境からの仙人の技のようなものを感じるのだろう。とまれ、彼もまた天賦の美質ゆえにその実生涯においては悪魔に翻弄されながらそこからの解脱に心を砕き続けた人であったような気がする。浄化された形の裏の苦労を心ある鑑賞者は忘れていないだろう。