美の問題と倫理の問題をひとは分けうるだろうか。「魂」の次元からみるとき、私はつくづく、それは不可能であろうと、社会という場に定位された高田の自己意識と他者意識を眼の前にしながら、思う。そこでは、一個人における「自」と「他」の両意識が、魂的心情から共振し合っている。これは、責任や倫理という観念を産む原初的な人間感覚であり、この感覚への忠実さすなわち緻密さが思惟に要請される、というより、ここで自己内省はおのずとこの内的感覚に密接して自己を規定しようとする。ここから高田の、逆説的に根深い日本人意識が生じてくる。この意識は同時に、みずからが属する国家なるものに自我として如何に対峙するかの自覚でもあった。この彼の自覚、自らが日本人であることの彼の受容様態――在外生活なるものがいかに強く自己の国籍を意識させるものであるか、まして第二次大戦中の日独仏国の相互関係の推移のなかで――は、およそ単純な帰属意識などではない。自我の自由と、同一国民への責任と、日本国家への義務という三極が絡み合い引き裂き合う場である「社会」という、第三人称域の総体、正に「他」称の世界の中での、魂としての生の自覚なのであった。ゆえに、「日本人としての無自覚」は、高田の目醒めきった意識の率直な告白であるが、同時に反語なのである。自我の自由なら、「人間心情」への忠実において成るであろう。友情・愛情なら、この同じ心情の充溢が、相手との関係を、責任意識に替って満たすだろう。本来の意味での「他者」の総体としての社会においてこそ、魂は「試練」にかけられる。人間の集団的生の機構である社会が、本来、魂にたいする無理解の総体であることは、社会の生む必然悪の最大のものである「戦争」の事実によって本質的に明示されている(政治の現実が示すように、ここでは人間世界は、自然界の生命原理の上に、この原理の掟の延長上に立っている)。社会は「他者」の定義(本質)そのものを顕わしている。其処において魂が自らを見失うまいとして自己の感覚に耳を澄ますことが、本来の倫理と責任意識の淵源であろう。そうして、己れの魂に疎遠な他者存在にたいしても、己れの側からの自発的な人間心情の投影によって、その反映において、自己の態度を規定しようとすること、それは、そのことによって魂としての己れ自身を守り証しようとする行為にほかならない。

 しかしそこにおいて高田は決して、自己の感情とイデーの反照でしかない理想的国家社会の幻影に欺かれることはなかった。フランスの知性者の友の中にも、左右を問わず、この傾向が見られたなかで(後述のジャン・リシャール・ブロック、アンドレ・マルローの例)。

 『薔薇窓』第一部Ⅱ・Ⅲに集中的に、高田のこの点における告白と考察、自己内省がみられる。彼の、自己の魂への鋭敏さは、社会という場においても、三人称的他者としての同国人(日本人)達にたいする責任と、国籍に拠る自己の立場とに関して、「理屈づけることなく」魂のありようにふさわしい自己規定を見出そうとする(ひとはここで「品格」というものの根元に触れる思いがするであろう)。

 高田のこの自己規定のありようを、いっさいの単純化を排して、高田自身の伝えるままに、私はここに述べねばならない。解釈を排してそのままに理解しようとする努力そのものを私はここに示す。彼の言葉を引用する秩序(オルドル)にも、私の理解様態が示される。

 

 《戦争は私に、かなしみなげく以上に、苛酷なものを見せた。私は国家が犯す悪を見てきた。この悪に何が抵抗できるか? 国家はその存在理由の必須条件として悪を行わざるを得ないだろう。私がそれを否定しても国は存続するであろう。》(同Ⅲ)

 

 私はこの、存在としての悪の経験と定立を、私の高田理解――彼の自己規定にたいする私の理解――の基礎に据える。そして、魂としての自己を選択すること、換言すれば、自己自身への意志と信は、存在に基づく生にありながらこの存在を否定することである、と端的に言おう。高田は続ける。

 

 《ここで私の反省は哲学領域に入った。問題は「私」が否定することなのであった。決意しなければならぬのは「自分」が選択することである。》(同)

 

 「自分」のありかたを自ら規定すること自体に問題は旋回、収斂する。

 

 《もし戦争がなかったならば、私はこの「自分」への決意を得られなかったであろう。あるいはまた、私がフランスに来て十五年の間、社会と人間思想の矛盾軋轢(あつれき)の中に巻きこまれなかったならば、私自身の精神態度は明瞭にならなかったであろう。》(同)

 

 しかし本当の問題は、自己を選択したこの「自分」が、存在の悪を拒否することで自分自身の中のその存在に属する面を拒否することである。これは一種の、生きながらの自己否定の修練を要することである。換言すれば、これは、己れの「生」自体の中にひそむ悪を承認しつつもそれを肯定することなく生きることではないのか。そしてそこから他者への責任意識も、国家への義務(拘束)意識も、逆説的なかたちで生じてくるのではないか。この問題について高田自身は次のように言っている。(続)