ぼくは、戦場の兵士と先生とぼく自身との状況が重ね合わせて思われた時点から、昨年筆の小論を書き始めたのだった。この極限状況で人間として尚いかにして生き得るか、そこでの生きる行為はいかにして有意味的なものであり得るか、という問いから出発した。この問いのこたえは、やはりそれ以前ぼくが続けていたもの即ちぼくが著書で表現したものを復活させることでしかなかった。その裾野を広げること、広義の「魂の実証」の視野で先生との「共存在」を生きること。魂的作品創造の内的過程とともに現実の生における魂の行為をも、魂の自己実証のかたちとして捉えること。これがぼくの著書の時点と昨年の小論執筆の時点とを繫ぐ自然な線である。戦争以前の長閑(のどか)で健常体だった時代のいとなみがやはり今のぼくの支えになっている。人間には連続しか、自己の連続しかありえない。(「哲学とは人間の連続を見出すことである」アラン。)この連続が歴史ということなのだ。これが記憶ということなのだ。創造とは、この歴史、記憶に関わりそこに形を見出し彫り出してゆくことである。これが自己の自己自身への行為であり、意志の働きである。魂の世界は、この記憶と意志が緯糸(よこいと)と経糸(たていと)となり織り成す世界である。これこそ「世界」である。そのいとなみは彫刻制作的であると同時に音楽創造的である。そのようなことをこの電子欄を綴りながら自覚してきていることを、今をふくめた三つの時点における自分の連続性、能動的に言えば持続性を確認しつつ、ぼくは満足している。