416

五十九(社会・存在悪)


誰も人から殺されるためにも人を殺すためにも生まれてきたのではない。そう思うことができるということは「人間」である証だ。それは「魂」であることの第一の本性だ。しかしこの魂は、「社会」のなかで生きている。その自己保持機能である「国家」が、そのためにこの魂を裏切り「悪」を、殺し殺されるという悪を為さざるを得ない、社会のなかに。この矛盾(魂が生じて以来、それから解き放たれることのない)は、人間にとって、魂にとって、「存在」そのもののなかにある矛盾だ。先生の滞欧生活は、それを身をもって知り、反省し、そこにおける「魂」の態度を見極め自覚する歴史でもあった。

 

六十(社会・存在悪 II

 

皮肉なことに、ぼくは今迄ここで繰り返し触れてきたぼく自身の「異常状況経験」がなければ、先生が経てきた「存在そのものの矛盾」を自分の経験に基づいて照応的に了解することはなかっただろう。ぼくが今でも「人間」として生きているのは、ぼく自身の「人間理念」に基づいているのであって、これはむしろ「存在への反逆」なのだ。断じて、〈存在の法〉などへの服従ではない。却って、この数年来、周りの人間達がこの〈存在の法〉に吸収され(そうぼくは判断している)傀儡と化して異様な意識となり、嘗ての自分の「人間」としての在り方を失って、明らかに人格変質を起して言動するのを目の当たりにしてきた。心底ぞっとする無数の現象をぼくは経てきたのだ。少なくともぼくの周囲で何か霊的変動が起ったか、「存在」がその本性を突然露わにしてきたとしか思えない。そしてこの周囲の異常言動を通して「存在」がぼくに要請していることは、〈おまえは魂もろとも滅べ、死ね〉、ということなのだ。それが〈存在の法〉なのだ。ぼくの知らない間に知らない所でぼくは勝手に欠席裁判で死刑宣告をうけたらしい。冗談ではなく、これがぼくへの「存在」の、「創造主」の、仕打ちなのだ。そういう現象にはいろいろ解釈の仕方があるらしいことを、ぼくはこの電子情報網世界に最近やっと触れているうちに識ったが、ぼくの判断では、社会的世俗力、霊界的力、実在的な存在そのものの力が同質的に結託して起っている現象であり、高田先生が当時の社会矛盾と戦争悪を通して観た存在そのものの矛盾的本質を、ぼくにこの「平和」な日本の只中で確認させるものなのだ。ここでこの矛盾を思弁的神学的に意識のうちで説明し先取的に解消しようとする態度は、人間の魂の切実さへの僭越な裏切りでしかない。


六十一(態度)

 

この(手紙五十八冒頭の)「不思議」で「難解」な先生の文章は、しかしいかに親しい‐親密な‐「実感」をぼくたちに感じさせることだろう。この「難解さ」は決して晦渋な思索からではなく、あふれるばかりの内密な実感がどうにかして「形」をもとめて成ったものであることを、ぼくたちは素直に感じているはずだ。さまざまな他の思想家たちの思想を連想してすぐにそれによって解釈にかかろうとすることなく、ゆっくりとその実感のなかにぼくたち自身降りてゆこうとする態度に、ぼくはじゅうぶん意識的でありたいと思う。

 

六十二(魂・過去)

 

ここにひとつの「魂」の表現があることは間違いないと思う。「魂」への「自分」のかかわりが表現されている。「魂」とは「自分」のものであり、しかしそれは「自分」がその一部であるような、自分がそれに属するような仕方で自分のものなのであり、そこに向って自分が運命的に歩いてゆくようなものである。三十歳時のその感慨を表現するのに先生はその後の三十年近くを要した。そして言いうることは、「魂」とは「人生」そのものであるが、その「人生」は「経験」の総体としてなにかしら「過去」であり、われわれはその「過去」に向って歩いているのであるということ、その「過去」は系列的な「時間」を超脱した過去であり、〈形而上的根源〉というよりほかないあるものであること。そのことを若い先生は〈感じ〉てその〈想い〉に沈んでいたのだ、と思う。そのとき、見える外界はそのものがその「過去」からの、形而上的過去‐魂‐からの、最も〈内なるもの〉からの招きとして感ぜられた・・それが「自分は来るべきところへ来た」という感慨だっただろう。

 

417

六十三(アネクドート・ロシア)

 

いつも疲弊している。わたしの身に起ったようなことは決して起ってはならないことだ。人ひとり傷つけたこともない人間の死刑判決とはいったいどういうことか。悪は絶対的に「判決」した側にある。それがどういう存在であろうとも。法律的死刑囚でも身体の健康は配慮される。健康を全うして独房で勉強・瞑想に集中出来ているほうが仕合せである。もう死ぬだけだと思っていたのが、また一年生きた、もう一年生きるだろうか、という気持で生きていて、毎日が重たく苦しい。計画的集中などできないが、それが却って、作為性(本来あってはならない)など全くない創造行為を生むことにもなろう。それに自分を委ね、結果として自ずと形を成してくるものの積み重ねのなかに「真」を観よう。そういう意識を保って書いている。そういうことでなら(そういう「方法」でなら)わたしには書きたいことはいくらもある。その都度の判断、文章形成は、今の状況でのわたしの自律的精神の勝利の一歩一歩であるが、読者はそういう状況をよく心得つつ読んでほしい。形而上的本質瞑想に集中するときでも、わたしの心は同時に形而上的怒りに煮えたぎっている。「存在への怒り」だ。(「言葉」で解決しようとする「学者」の虚偽をわたしは知りぬいている。彼等が魂になりきることはない。彼等はヨブ記の神によって永遠に断罪されている。そういう意味ではわたしは学者ではない。)

 

 わたしは息抜きの権利があるから、今日はアネクドートを述べる。ロシアという国には複雑な想いをもつ方も多かろう。ぼくの縁者もノモンハンで戦死している。しかしぼくは大地的文化としてのロシアに本質的に惹かれるものを感じる。東洋でも西欧でもない。高田先生がはじめてフランスを観た際の独語についてのぼくの読み取り(魂・過去)に、ガブリエル・マルセルの形而上日記的な観念を覚える方もおられようが、リルケの、ドゥイノの悲歌に至るまで決定的であると感ぜられるロシア経験から得た想念を重ねることもできよう。リルケの「経験」という想念は、ロシア的な母なる大地とそこに根ざす人間存在の感得がなければ生じ得なかっただろうという思いがする。彼の「経験」は、高田先生も自らの瞑想の本質主題とする〈未生前の記憶〉もふくめた具体的かつ根源的な記憶の集積であり、沈黙の世界という蔵の実質であり、個のうちに見出されながら個を超出包越するものであり、遂には「神」にまで遡るものであろう。われわれは自らの経験を成熟させるべく己が生の道を歩みつつこの太古の神との会遇を期しているというのがリルケの思想だろう。このリルケの方向性をいかにして自分の照応力で確認しうるほど自分のものとするかが、現代における宗教的意識(宗教ではない)の課題ではないだろうか。この意味でのリルケの影は、高田先生においても大変濃いのではないかとぼくは思う。

 

六十四(アネクドート・続)

 

息抜きがロシアの映像作品を観ることであるが、ささやかな範囲である。タルコフスキーの、大地に沈潜する瞑想性は、管見で、かれ独自の強い感受性によるものであろうと長く思っていた。しかし最近、かれの世界はロシアの空間の固有の独自性から生れているもののようだと思うようになった。ロシアそのものがタルコフスキー的なのであり、タルコフスキーそのものがロシア的だったのだ。ひとつの証左が、ぼくが幼いとき実母に連れられて観て夢の衝撃を受けた『チャイコフスキー』を思いがけず最近再び観ることができたことだ。同国同時期の作品だが、かれの世界と体質的感受性を共有している。同じ土壌からかれのものもこの別の作者の作品も生れたことがよくわかった。この場で特徴描写はしないが、ぼくの思うことは、ここに共通する人間精神表現が、なぜ、日本ではできないのだろうということだ。なぜなら、そこには普遍的な人間主題があるからだ。集中性の欠如か。日本では拡散してしまうのか、追求の持続性がみられず、あっても「味」におもねってしまう。この期になってやっとタルコフスキーの初期短編作品『ローラーとヴァイオリン』も観ることを得たが、かれの持続的主題が既に鮮烈に本能的に出ている。それはぼくの言葉で言えば「祈り」の境位だ。それが日本世間一般ではどうしても「実在性」を獲得しないのだろう、と思う。