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六十五(再び・一元化)

 

わたしにとってフィルムも音楽もめったにそれ自体を全部通して鑑賞するためのものではない。「自分の内部の韻律(リズム・リトム)」を想起するためのものなのだ。そういうものに選んで触れることになる。人為的計画的な構成が極力排除され内面的自然性の波にもとづいて制作されていることが選択の基準だ。「自分」を繰り返し呼び起こしてくれるもの。血液型性格判定は根拠は分らぬが時々興味あるもので、それによるとわたしの型は、一つのことをやっていると突然他のことがやりたくなり、実際にやってしまい、その積み重ねによって今があるのだそうだ。じっさいその通りと言えるが、これはわたしの「自然」であって、その都度の転換には「根拠」がある。或る一つのことを持続的に集中してやっているほど、ある時点で「見極め」がついてくるとそれ以上追究する動機が消えてしまい、他の追究すべき領域が気付かれてくるのだ。その中で一つだけ一貫して持続しているものがある。ほかならぬ「自分」の追求だ。すべてはこれをめぐって変転する。だからぼくは何かの「専門家」には結果としてならない。やる時には徹底してやるので、その資質は相当あると思うにもかかわらず。あるいはぼくの「転変」には多分にぼくの故障ばかりしている身体条件が契機として「後押し」している面も意識している。やけを起こして、このくらいなら自分が本音で今やりたいと思っていることをやってしまえ、という気持になり、実際にやってしまうのだ。そうしてぼくは「フランス」に転向し、今がある(ぼくのささやかな仏語は、それ以前に修練してきたドイツ語の構文力に基づく独学である)。しかし根本的な中心は「自分」である。そしてこの「自分」と照応し続けるのは高田先生のみであった。今、ぼくの身体が強制的に駄目になってしまったので、息抜きのもの意外はすべて脱落して、先生とのみ向き合うまでに「一元化」してしまった。

 

六十六(薔薇窓・地中海)

 

けっきょく、人間には人間のみがのこる。日本でもロシアでもフランスでもない。自然ですらないだろう。人間が人間に面しているとき人間にとってはほんとうに安堵感がある。ほかのすべては二次的な契機や背景へとしりぞいてしまう。それらすべては人間の魂を映す内面の窓の風景となるのだ。すべてにおいて人間のたましいをみている。「神」はまだ彼方にある。それでよい。「人間」を通してのみそれに一歩一歩近づいてゆこう。その「人間」において「自分」のか「相手」のかの境界はぼやけている。いっさいの影像が魂のヴィジョン(幻)となるようなその親密さの境に身を置こう。「孤独」のなかに開けてくるこの「人間との対面」に己が全重量をかけよう。そうしてこそこのひとの『薔薇窓』の世界に入ってゆくことができる。このひとは自らの暗黒の状況の中、じぶんの魂とのみ向き合いこの内面の窓にうつった影像を記録した。破壊の只中にある世界のなかでの沈黙の魂の記録である。この『Rosace』そのものが、かれの魂の生世界という海原への「窓」である。愛に充ちたかれの紅饒の地中海への。

 

六十七(「神」)

 

森有正が「内的促し」ということを言う。自発的志のことだと思う。これに従って生きる時、不思議なことがいろいろ起きはじめる。これはぼくの経験である。そして、これは彼が言っていることであるが、しまいには「神の導き」を信じざるを得なくなる。これもぼくは同感である。しかし、とぼくは思う、そういう仕方で「神」を「信じ」てよいものか、と。むしろ、志を懐いて生きる者には、天使だけでなく悪魔も関心を寄せるのではないか。そしてそこには、人生における「不思議な出来事」の意味の取り違えが不断にありうる。ぼくたちはよく「神」に祈る、願いが叶えられますように、と。叶えられるにせよ叶えられないにせよそういう仕方で「神」に関わろうとする姿勢にはぼくは甚だ懐疑的である。「出来事」に「神の意志」を読み取ろうとする態度そのものにも。根本的に「神の感得」の仕方として間違っているのではないかと思う。天使と悪魔の綱引きの場には神は不在だと考えることが出来る。此の世の矛盾がここに窮まっているのではないか。ジャンヌ・ダルクが「神の声」だと信じたものにおいては神は自らを示さなかった。(むしろそれは恐るべき両義性において正体を現し彼女を破滅へ追いやった。)ジャンヌが純粋に「神」に関わったのは火刑台の上でしかなかった。そこで彼女は再びむかしの自分の魂に出会ったのだ。「神」とはそういうものだ。そういうものとして先生は生涯「神」と向き合ったのだと言えば、『薔薇窓』の(そしてそれに続く記録行為の)示すものが感ぜられようか。森有正も賢明にそれを感じとった最初の人々のひとりであったことを申し添えておく。

「神」とは、己が魂を求める人生態度の窮極に対面するものである。これがぼくの神観である。

 

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六十八(「神」付言)

 

そのような意味では、〈私を意図的に欺く悪霊の支配〉すら積極的に想定して自分をぎりぎりの極限に追い込み、自分以外のすべてのものの真実性を否定して、〈われのみ存在する、「思う」われのみ〉にゆきつき、この「われ」に相応する存在としてのみ「神」を認めたデカルトと、「啓示」に拠ることなく己れの孤独、生の経験の孤独さの全量を挙げて「神を感覚」しようとしたリルケらのロマンティカーおよび象徴派たちは、その精神態度においてぼくのなかではいつも重なっている。

 

六十九(魂の展望)

 

高田先生の世界は海洋の中から生まれ聳(そび)える高峰がその頂上を天に接しているようなものだ。海洋は先生の実人生という海原であり、先生が愛した地中海に喩えられよう。その海から形を成して結晶した陸地は先生の作品世界であり、そこに立つと、《夕暮れるエトナの大山塊とイオニアの海》(「地中海にて」)が同時に見渡せる。その先が空に触れているこの山は先生の最高の傑作群であり、著作なら「ジョルジュ・ルオー」論であろう。しかし生の海あって生ける「形」が産まれるのである。この地中海を証言するものが『薔薇窓』である。それは先生の魂の原色彩を伝えるものであり、先生の他の生活記録をもぼくたちが航海する際の燈台となるものである。そのような展望をもって、先生の多面的で広義な「魂の実証」の世界を経巡りたいと思う。〔ぼく自身、このぼくの魂の証の文を、戦火の下の塹壕の兵士が時折応射しながら「友」に宛てて認(したた)める手紙のように、そのような状況で、書いている。〕