「自然権を歴史主義が否定したことが二十世紀の全体主義を導いた」という命題がある。今、この命題だけを相手にしてぼくの判断を述べる。自然が万人に与えた個人的権利という主張も、すべての権利は歴史の過程で生じた相対的なものであるという主張も、いかにも「形而上的・超越的次元」の承認が瓦解した時代の主張である。自然にせよ歴史にせよそれ自体として見られれば形而下的内在的なものにすぎず、そこからは「生物界の原理・社会の原理」しか出て来ない。もし普遍的な「人間の権利」を主張するのであれば、それら「内在の原理」を超えた「神への信仰」を暗黙裡にでも前提していなければならない。ぼくはここで、「形而上的アンティミスム」の境位においてこそ本来的に確認される思想を、「社会化」することの難しさを感じる。今迄述べてきたようにそこには「矛盾」があるからである。この矛盾を克服・糊塗しようとして「歴史以前」の「自然状態」に「権利の根拠」を求めることは、「超実在的なものの実在化」(形而上的なものの形而下化・内在化)の試みでしかない。「実在的なもの」とは、「既に与えられているもの」と見做しうるもののことである。ぼくは、「魂なるものは証明も所有もされない」と言った。すなわち、魂とは、その限りで、実在を超えた理念なのである。しかし、この「魂」の承認こそ、「人間の権利」のパトスの根源にあるもの(自覚的にせよ無自覚的にせよ)なのである。ここに想到しないかぎり、「議論」なるものは堂々巡りを繰り返し、「議論」そのもののなかで本来の理念の実体を忘失するしかない、というのがぼくの判断だ。