きみ、ぼくたちはみな多かれ少なかれ二重人格なのだと思う。此の世で生きるということそのものがそれを強いるのだ。生活そのものによって、非人間的な要素が入り込んでくる。孤独な「芸術」行為のなかにこそ本当のその「人間」の「本質」が現わされるという直観と信念で「芸術家」は生きている。実際の「現実」においては多分彼の「人間」は矛盾だらけだ。枚挙にいとまがない。そこでその彼を、彼女を、愛するということは、「本質直観」にもとづいているのだと思う。その本質がすこしでもおおく輝き出るように願うが、そこで所謂「道徳的努力」というのは空しい。「法への服従」を強いるのは空しい。それは彼(彼女)を愛すべき存在にはしない。愛すべき存在であるのは、あくまで本人の「本質」によるのである。その本質は彼(彼女)のなんらかの「作品」に現われている。作品なしでも或る瞬間の「風情(ふぜい)」に直観されることもあるだろう。そういうものが直観されるならぼくはそれにこそ信を置き、その「本質」こそがそのひとの「本来の現実」なのだと見做す。「美的直観」こそをぼくは信頼する。「魂の内奥の美しさ」の感受こそを。ぼくの信じる「神」はそこをこそ観ている、そしてそこで「審判」する。卑しき世俗の統領(汚す観点からしか見ない)とは違うのだ。この信仰がぼくの形而上的アンティミスムの根本だ。「賭ける」に値する信仰だ。そのような意味で、ぼくは道徳を憎む。「本質の輝きの自然な結果」以外の道徳を。みたまえ、何の内的秩序も無い統領の従者どもが今日も走り回っている。

 「会いたくなるようなひと」であることが人間の真質を決める、と先生は言った。これを実際の面会の意味にだけとってはならない。