われわれが或るものの「一部分」となるのに、自己疎外的にそうなるのと、自己充足(充実)的にそうなるのとがある。前の場合が実在的な「全体主義」への屈従吸収であり、あとの場合が形而上的な「魂の親密性」への創造的参与の場合である。そしてそれぞれの場合の統合的存在として思念されるのが、前者では「創造主」であり、後者では「神」である。ここで「存在論」(ontologie)は、「信仰」と同様、不断の逆説的境位に置かれていることがわかる。聖書なるものにも、この「聖なるもの」の分裂的二重性が、これ自体は統合されることなく示されている、と思う(全体主義的実在世界そのものの統轄者として神が思念信仰された)。先生の言う「存在そのものにある矛盾」は、狭義にはこの実在世界自体の反魂的構造本質を、広義にはぼくの言う「創造主と神の対立」そのものを(そしてそれによる本来的存在性の不断の逆転可能性を)、意味しているとぼくは理解する。念を押すが、戦争という必然悪を生じる人間社会は、自然の生世界のそのままの延長であり、この生原理の根源には「創造主」がいる。この経験によって確かめられる事実から目を逸らしてはならない。