ここにひとつの「魂」の表現があることは間違いないと思う。「魂」への「自分」のかかわりが表現されている。「魂」とは「自分」のものであり、しかしそれは「自分」がその一部であるような、自分がそれに属するような仕方で自分のものなのであり、そこに向って自分が運命的に歩いてゆくようなものである。三十歳時のその感慨を表現するのに先生はその後の三十年近くを要した。そして言いうることは、「魂」とは「人生」そのものであるが、その「人生」は「経験」の総体としてなにかしら「過去」であり、われわれはその「過去」に向って歩いているのであるということ、その「過去」は系列的な「時間」を超脱した過去であり、〈形而上的根源〉というよりほかないあるものであること。そのことを若い先生は〈感じ〉てその〈想い〉に沈んでいたのだ、と思う。そのとき、見える外界はそのものがその「過去」からの、形而上的過去‐魂‐からの、最も〈内なるもの〉からの招きとして感ぜられた・・それが「自分は来るべきところへ来た」という感慨だっただろう。