ぼくはもともと「機械操作」というものが好きでなく、避ける傾向があった。機械の都合にこちらが合わせてやっていくことに、どうにも我慢のできない他律性を覚えるからだ。自分の意識が「客観物」に吸収される経験をするからだ。ああいやだ! そういうわけで自分の体が生れて以来の健常状態にずっとあった間は、世の中がどんなに電子機械化されても、自分の個人生活と仕事の流れの中にはそれを入り込ませなかった。今ぼくが自分の電子欄まで開いて、曲がりなりにも機械操作などやっているのは、その間は自分の身体状態の普通でないことから意識を逸らせることが出来て、まるで自分もまだ通常人の生活を営んでいるかのような錯覚を生きることが出来るからなのだ。「機械への意識の吸収」を逆用しているわけだ。ぼくの前には本と原稿用紙とペンしかなかったのだが・・・ この以前の状態は基本的に健常な身体状態を前提していたことを思い知らされている。 かなり前、先生の御生前の奥様と電話でお話ししたことがある。もう出版されていない先生の著書の全頁を国会図書館で複写することの許可を得るためだった。話は生前の先生の思い出に移り、「いわゆる手を合わせて祈る式のことはしないのですけど、それはそれは深くてゆたかな宗教的感情を懐いたひとでした。あんなひと他にいませんよ(語気をつよめて)。わたしの夫だなんて思っていません。」そこまで伴侶から敬愛される人もいるのだと思った。そして最後に、「どうか健康にだけはお気をつけて。どんなに素晴らしい才能素質を持っていても、体を駄目にしたら何にもなりませんから(再び語気をつよめて)。」そして、「神はいます。」と。 あれからぼくなりにいろんな経験と生活があった。そのなかでぼくの本質は一貫している。〈成長〉なんて言葉はぼくは信用しない。ただ〈深まり〉があるのだと思う。なぜならこれのみが〈謙虚〉と一致するから。〈これは他人相手のものではない〉とぼくは言った。なにへの? それこそ〈生ける理念〉といえるものへだとぼくは思う。自分の中でしか出会わない。