ぼくはここに「解説」を書きはしない。一つの石塊に向って或る形を彫りだす者のようでありたい。それがよろこびだから。一鑿一鑿に硬い素材の手応えを感じることを大事にしながら、「本質」と向き合い、それにその都度の「形」を与えてゆきたい。それが「思想形成」ということだ。「引用」や「名辞」などを組み合わせてそれができるはずはない。「彫刻」は「自分」しか語らない。だから「思想」なのだ。そのようでありたい。「本質」はそこに在る。それを「実現」することが問題なのだ。この欲求は殆どぼくの体質と化している。「随想」は言葉を好きにもてあそぶことではない。言葉はそのあまりの便利さ、「使いやすさ」のために、あざむきの道具ともなる。彫刻家が実際には塑像家として、粘土という素材の「使いやすさ」に自ら「抵抗」しながら、「本質」を「実現」しようと格闘するいとなみと同じはずである。(ブールデルの「苦心」はそこにあっただろう。)「考える」ということはそれ以外ではありえない。「本質」に向って自分の「判断」を鍛え上げるその一歩一歩である。そこに「文章」というものが形を成してくる。「作る」よろこび。経験の海原から在る本質の形が浮かび上がってくる。「自分」しか出てこないことを大事にしたいと思うのみ。そこにしか「真実」はないのだから。そういう態度そのものを先生はぼくに「教えて」くれた。そのようにして「形」となった「思想」を先生は、彫刻家らしく、「触知し得るイデー(思想・観念)」と呼んだ。「君は指で思索するね」、とロマン・ロランは先生に言った。