今は週末の夜でもあるし、体のためには無理にでも寝た方が良いのだが、薬害で不眠になっており、寝たいという欲求がない。今の頭で何を書き出すか判らないが、さっき電子情報網の近隣諸国関係記事を読み、記事に関する多くの読者のコメントの印象についてコメントした。ぼくはデカルトの言葉を思い出してこう書いた:

『みなさんのコメントを読ませていただいて、つくづく、デカルトの言うように「良識」というものは最も万人(今の場合日本人)に等しく与えられているものだな、と思いました。みなさんは意見や判断が異なる場合でも、怒りを爆発させる場合、抑えて冷静に意見する場合、いずれも等しく人間の健全な魂が働いています。「怒り」は魂の証です。それをどう生かすかは個人の判断力・知性です。わたしはそう思います。ありがとうございます』

デカルトは「方法序説」第一部をこう書き始めている:

《良識はこの世で最も公平に配分されているものである。というのは、だれもかれもそれを十分に与えられていると思っていて、他のすべてのことでは満足させることのはなはだむずかしい人々でさえも、良識については、自分がもっている以上を望まぬのがつねだからである。そしてこの点において、まさかすべての人が誤っているとは思われない。むしろそれは次のことを証拠だてているのである。すなわち、よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつところの能力、これが本来良識または理性と名づけられるものだが、これはすべての人において生まれつき相等しいこと。したがって、われわれの意見がまちまちであるのは、われわれのうちのある者が他の者よりもより多く理性をもつから起こるのではなく、ただわれわれが自分の考えをいろいろちがった途によって導き、また考えていることが同一のことでない、ということから起こるのであること。というのは、よい精神をもつというだけでは十分ではないのであって、たいせつなことは精神をよく用いることだからである。最も大きな心は、最も大きな徳行をなしうるとともに、最も大きな悪行をもなしうるのであり、ゆっくりとしか歩かない人でも、もしいつもまっすぐな途をとるならば、走る人がまっすぐな途をそれる場合よりも、はるかに先へ進みうるのである。》

記事にコメントした人々の多様な意見を思いつつこのデカルトの文をあらためて読んでいると、こんな絶妙な表現がまたとあるだろうかとほとほと感心してしまう。本質的な、しかし具体的にはきわめて入り組んだ「判断力」の問題を、もののみごとに簡潔に素描してみせているのである。