「この人」が五十一歳を過ぎて異国の地から日本の実娘に当てた手紙で、次のように書いている。

《私も仕事はようやくこれからなのですから今後まだ三十年生きないと、今日まで私が苦しみ生きてきたことの意味がなくなります。》

しかし「この人」はこの点においては幸運だったのであり、自らの魂を開花させ得たその人生を私は、そうでなくてはならないと慶賀する。だが、ここで「私が苦しみ生きてきたことの意味」を無くするようなことを創造主が許し為したとすれば、そのような存在に尚服従帰依するだろうか。ここで創造主をなお善なる存在であると判断する者は、ヨブ記の中の、ヨブに反論する偽善の友人達と同じである。彼等こそ、自分の「信念」で他者を裁く者達であり、私が既に自著で厳しく批判した人間の在り方である。同記ではその傲慢の罪は「真の神」から烈しく罰せられた。そういう者達だらけであると言ってよい。彼等のこの場合の「強弁」はいくらでも想像がつき退屈きわまりないものである。「創造主」は決して我々の魂のことなど顧慮する存在ではない。そう判断するよう、私は経験から強いられている。これは私に身体機能を超えた魂の自覚があるからこそ為す判断である。自分の「信念」で生きる者はそれは自由だ。しかし如何なる意味でもそれを他者に強いるな。また「信念」を権威づけるな。(読者はここで私が自らの判断を権威づけるためにヨブ記を出したと思うか。私にとって同記など無くてもよいのだ。)

しかし私は本来こういう刺々したことを語ろうとしているのではない。