土浦市の街並みの散策を予定していたが、「予科練」の映画を思い出し茨城県阿見町にある「予科練平和記念館」を訪れた。最寄り駅である土浦駅で下車し、バスに乗り換え阿見坂下で下車する。
〇基礎知識〇
土浦市は、茨城県発足から県南地域の商業・行政の中心的な役割を担っていた。東隣の阿見村(現・阿見町の一部)1929年(S4)に海軍航空隊が設置され海軍の町(軍都)となりました。交通の要衝となり料亭や遊郭など休養施設が多くなりました。現在でも土浦市は、人口14.1万人で国や県の行政機関が立地している。琵琶湖に次ぐ大きさの霞ヶ浦での花火は日本三大花火の一つと言われている。
阿見町は、茨城県の町の中で最も人口の多い町で現在5万人を越えており、国勢調査で「阿見市」になるかと思われる。かつては、畑作中心のであったが、1921年(T10)に海軍が霞ヶ浦飛行場を設置すると、海軍航空の地として賑わい、1929年(S4)に飛行船・ツエツペイン伯号が寄港、1931年(S6)にはリンドバーグ夫妻が阿見の地を訪れたりした。1939年(S14)に、神奈川県横須賀市から少年航空兵養成機関である予科練が土浦海軍航空隊に移転し、海軍航空兵育成の一大拠点となった。戦後は、旧海軍用地が引き揚げ者の開拓地、民間企業、自衛隊の防衛用地として利用。
□ヒットした「決戦の大空へ」□
予科練の映画は、当時、人気のあった「原節子」が主演した「決戦の大空へ」で、映画の挿入歌が、やはり人気のあった作詞・西條八十、作曲が古関裕而の「若鷲の歌」で、映画・曲とも大ヒットした。いわゆるプロパガンダ映画であり、今後、ますます重要性が増す航空戦のために早期育成する少年航空兵の募集映画でもある。昭和18年に上映されたが、戦況は劣勢となり映画の中でも「攻撃精神」「犠牲的精神」「滅私殉国」という台詞や、予科練卒業生が爆弾をかかえて体当たりするニュースなど悲壮感を感じさせる映画でもあった。
♦「予科練平和記念館」と「雄翔館」♦ 阿見は海軍の町に
日露戦争後、日本は軍備における航空機の必要性を感じ、1916年(T5)に横須賀に最初の海軍航空隊をつくり、さらに増強の必要性から陸上機と水上機の訓練などから霞ヶ浦湖畔の阿見に1922年(T11)に開設した、横須賀、佐世保につぐ3番目の海軍航空隊となった。1930年(S5)には、熟練した航空隊員を養成するため、「海軍飛行予科練習生(予科練)の制度を横須賀に設置するが、練習生が増えたため霞ヶ浦海軍航空隊(のちに土浦海軍航空隊)に移転し、阿見町は東洋一の航空基地となりました。交通網の整備が進み、農家が激減し、軍関係者や施設建設の工夫、商売人の転入など人口が急増し産業構造が変化した。予科練では、試験で選抜された14歳~17歳までの少年を空兵として訓練し戦場に送り出しました。しかし戦局が悪化すると大量採用や短期養成が当たり前になり、特攻隊や人間魚雷などで死地へと赴き多くの人命が失われた。
戦後、予科練跡地は、陸上自衛隊土浦駐屯地となり、構内には予科練戦没者の遺品などを展示する「雄翔館」がある。隣地の「予科練平和記念館」では予科練の資料の展示を中心に、旧海軍の町・阿見の戦史を紹介している。
(1)予科練平和記念館
館内、写真撮影禁止のためパンフレットを参考に
屋外展示もありました
(2)雄翔館と雄翔園
雄翔館と雄翔園は、陸上自衛隊武器学校内にあり、雄翔館の前には、戦車などの車両がありました。雄翔園の記念碑の序幕には作曲家の古関裕而氏が参列し多くの若い命が失われたことに自責の念と、ただただ冥福を祈るばかりだと話されたとのこと。
※阿見町にあるのに土浦海軍航空隊?
名前は「土浦」ですが、実質的な施設や訓練地があるのは阿見町です。土浦は、この地域では中心的な都市であり、常磐線の土浦駅から近く、物資や人員の輸送に便利であることから海軍が命名したのでは?館員の方は、東京ディズニーランドが浦安にあるのに東京と名付けたのと同じではと笑いながら話してました。
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【参考資料】
・ウイキペディア
・予科練平和記念館
・雄翔館
・雄翔園
・陸上自衛隊武器学校
・予科練 公益財団法人 海原会
・予科練を知ってみよう! 公益財団法人 海原会
・地図で楽しむすごい茨城 都道府県研究会 洋泉社
・地図で読み解く初耳秘話 茨城のトリセツ 昭文社













