目が覚めたら、久しぶりに大量の寝汗で、自分なりに考え、室温が常時35℃以上だったのが夜には30℃を切る様になり、要は気候が夏から秋に変わったからかと理由付けた。正しいかどうかは判らないが、そんな事を考えながら早速着替え、時間も4時に近い事だし起きる事にした。  

 

 そう言えば、明日25日は下弦だ。二十四節気や国立天文台がそのウェブサイトで公開している月齢をカレンダーに書き込む様になって2年目になるが、情報を視覚化して日々にそれを見られる様にしておくのがこれほどの意味を持ってくるとは思わなかった。月齢では、少し考えたら当たり前の事なのだが、朔、上弦、望、下弦がほぼ1週間毎に現れるとか、二十四節気なら一月に2回づつ出て来るとかである。やはり、解り切って居ると思って居る事でも、実際に文字なり言葉なりで表現する事はとても大事なのだなと思った。要は、ただ思っているだけでは駄目で、何らかの形にして初めて解ると言う事でもある。  

 

 Webに参加する前は、主な情報源がSNS等のWebからだと言う言葉を耳にして、“正気か?”と思ったものだが、かなりの年月を経た今となっては、気付いたら私自身がそうなって居た。他の、独自にアグリゲーションをして居るニューズサイトを利用したり、自分でその都度適切なアラートを設定していくべきなのだが、そう言う事はまずしなくなった。なんとなく出来上がってしまった習慣に従って、そこで流れていく虚実定かならぬ情報を目にしながら、己が取り残されて居る様な感覚に落ちっているのが実情だ。実際は、その様な形態で情報を得ずとも、自分以外の世界は時々刻々変化していっているし、自分自身の変化は自覚し辛いので、自分の外だけが変化していっている様に見えるだけだ。故に、元々得体の知れない巨大な世界の中に一人で存在している事を改めて自覚し、己の相手である世界が如何に変化しようと、己は絶対に変わらないと言う覚悟が必要なのだろう。何故そう言う状態に己があるかという理由は、これは判らない。ただ、そう言うものだとしか言えない。  

 

 単に目覚めたら寝汗をかいていただけだったのが、文章を書いたのは良かったのだろう。同じ様な事を何回も書き綴っていくのが嫌で、そう言う記事を書かない様にすると言う目的もあって、ロシア語の日本語訳をブログで長くやっていたのだが、それも長く中断しているので、文章を書く事自体が無くなり、文章表現がかなり下手になって居る事に気づいた。故に、やめようと思っていた、この様なほぼ情報的には無価値な記事をブログで行うことを意図的に再び行う事にした。これには直近のWindows更新が良かったのか、フリッカーは止まらず、タスクバーは消えたままではあるものの、PCの動作が多少ましになったと言う事もある。  

 

 PCで思い出したが、スマートフォンも含めて、ウェブを使った器具の影響が出版業に影響を及ぼしていると言う事は聞いたことあるが、どうも万年筆にも影響しているようで、価格が、特に海外製がとても高くなっていることを知った。(PC、スマートフォン)+Webの影響は出版業、文具に限らず、小売業にも影響しているかも知れない。  

 

 まとまりのない文章になってしまった。主題を決め、取材し、推敲を重ねなると言った事をしないで雑貨を適当に書き綴ると、余程の文才が無い限り、この様になるのだろう。何より私は文筆業ではない。