クマの散歩道 Vol. 154 クマ、足尾のわたらせ渓谷鐵道の駅を訪ねる。 | クマの散歩道~大好きなふるさと日光市を紹介するブログです~

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足尾駅で偶然に出会えたトロッコ列車わっしー号
 
皆様、こんにちは。
 
日光市は全国で第3位の面積を誇ります。何と栃木県の約4分の1が日光市なのです。もっともその84%は山間部なのですが。
 
そんな広い日光市では、それぞれの地域がそれぞれの魅力を持っています。
 
その中で足尾は、ご存知の通り、かつて足尾銅山が栄えた街で、日光の社寺とはまた違った歴史のある街です。そんな足尾の街が僕は大好き。今まで何度足を運んだことでしょう。
 
今回は、用事があって足尾に出向いたので、ないとう食堂さんで食事をする前(この内容は前の記事で書いています)に、わたらせ渓谷鐡道の3つの駅を見に行ってみました。その3駅とは、通洞(つうどう)駅足尾駅間藤駅です。
 
実際に訪ねたのは4月3日(水)なのですが、記事を執筆している時間がなくて、少しずつ書いていたので、ブログアップが今頃になってしまいました。
 
 
※参考資料
 

まずは通洞駅から。ここはかつて足尾の中心地として栄えた地区です。住居表示では松原という地区になります。駅からは、足尾銅山観光(かつての通洞坑を再現した観光施設)や足尾歴史館(※1)などに行くことが出来ます。

 

通洞駅の開業は、1912年(大正元年)12月31日で、わたらせ渓谷鐵道の前身、足尾鉄道の駅として開業したのが始まりです。

 

 

※1 足尾歴史館は2019年4月より、運営をNPO法人から古河機械金属に移管されています→参考資料移管決定を伝える2018年11月29日付の下野新聞のネット記事

 

駅前には、日光市が設置した看板で、鉄道唱歌のうち足尾について書かれたものを紹介しています。
 
 
 ~以下、引用
 
”汽笛一声新橋を・・・”で知られるこの歌は、全国の風物を歌い込んだもので、その中に足尾の文句が7番もある。足尾が歌われたのは足尾線が足尾に敷かれた大正元年(1912)以後であろう。 
 
31 町をめぐれる渡良瀬(わたらせ)の 水上(みなかみ)深く尋ぬれば いにしえ勝道(しょうどう)上人が 白き猿(ましら)に案内(あない)させ 
 
32 分け入り初(そ)めし所とて その名に因(ちな)む庚申山 百聞幕(とばり)の巌石を ながめてゆけば茸石 (きのこいし)
 
33 さきにそばたつ櫓石 (やぐらいし)見るもいぶせき女体石(にょたいせき) おののきおののき一の門 くぐれば数丈(すじょう)の梵字石 (ぼんじいし)
 
34 谷間にそいて屹立(きつりつ)し 風に傾ぶく風情なり さらに進めば富士見石 拳(こぶし)に似たるさざえ石 

                        
35 ろうそく石は道の果て ここに踵(きびす)をめぐらせば 胎内くぐり二つあり 小なるほうは匍匐(はらば)いつ 

36 大なるほうは立ちしまま くぐりくぐれば奥の院 数えつくせぬ怪石の 奇景は真に別世界 
                                                                                                       
37 山に続きて二里南 銅鉱出す足尾あり 富田すぐれば佐野の駅 葛生(くずう)越名(こしな)にいたるみち 
 
(写真より書き起こし、括弧内のかなは、るび)
 
そして、駐車場に下りて、駅舎が建っている盛り土の擁壁には、足尾の四季(足尾町商工会のページにリンク)のレリーフと日光市で設置した案内板があります。前に車が駐車されていたので、正面から撮影が出来ませんでした。
 
 次は足尾駅です。足尾駅も開業したのは、通洞駅と同じ、1912年(大正元年)12月31日です。その日、栃木県との県境にある群馬県側の沢入駅から足尾駅まで、足尾鉄道が延伸してきました。

通洞駅が切り妻屋根の建物だったのに対して、こちらは入母屋の、いかにも〝昔ながらの駅〟の佇まいです。
 
足尾駅の構内にはたくさんの車両が保存されています。まずは古河鉱業の社名の入ったディーゼル機関車から。
 
そしてキハ35系気動車です。
 
これはキハ35 70という車番の車両になります。35が車両の形式を指し、枝番の70は製作された順に付与される番号です。ただし、必ずしも1から製造した車両数まで順序正しく付番されるわけでもなく、たとえばこのキハ35系の場合は、新潟で使用されていた寒冷地仕様の車両は、枝番が500番台の番号で付番されています。
 
前はついてなかった気がするのですが、窓ガラスに簡単な車両の説明文が貼られていました。周りの景色が写りこんで見にくいですが、このキハ35 70は、1964年(昭和39年)11月10日に、日本車輌製造において新造され、千葉機動車区に配属されましたが、房総地区の電化に伴って、1974年(昭和49年)に高崎第一機関区(現・JR東日本高崎車両センター)(※2)に転属しました。
 
 
※2  現在のJR貨物高崎機関区とは別の施設です。国鉄時代はこちらは高崎第二機関区といわれていましたが、国鉄分割民営化によって、高崎第一機関区はJR東日本に、高崎第二機関区はJR貨物に移管されました。
 
こちらはキハ35系全般について説明されています。主要部分だけ抜粋すると、キハ35系気動車は旅客輸送が多い非電化線区向けに、国鉄が導入したオールロングシートの通勤型車両で、気動車としては初めて両開き3扉を採用しています。また非電化路線の低いホーム高に対応するため、ステップつきにしましたが、当時の設計では車体強度を確保するためには重量が重くなるとして、客用扉を車体外側に設ける「外吊り扉」を採用したことなどが書かれています。
 
と、いうわけでドアを撮ってみました。おお!確かに外吊りだ~。外吊りの話は、上に書いたキハ35系のリンク先、ウィキペディアに詳しく書かれています。
 
扉上部を見てもそれは一目瞭然。
 
こちらはキハ30系気動車です。キハ30系は、キハ35系と同じ仕様で、トイレのついてない、両側に運転台のある車両です(キハ35系のリンク先のウィキペディアを参照)。
 
これはキハ30 35という形式標記があります。この車両は、新潟鐵工所で製造されたようです。新潟鐵工所は現在は経営破綻によって存在しません(新潟鐵工所の業務のうち、鉄道車両の製造など、一部の業務を新潟トランシスという会社を新設して引き継がせています)。
 
地方ローカル線ではすっかりお馴染みのドアボタン。もっとも最近は宇都宮線(東北本線直流区間)など、地方の幹線でも見かけるようになりました。
 
この車両も扉は外吊り式を採用しています。
 
反対側を見てみました。
 
こちらはガソリンを運んでいたタンク車です。
 
タキ35811と書いてありますが、国鉄の35000形ガソリン専用タンク車です。35トンのガソリンが積めるタンク車です。運行当時の所有者は日本石油輸送という会社なんですね。
 
こちらは濃硫酸専用のタンク車です。濃硫酸は銅の製錬(鉱石から金属を取り出すこと)過程で出る副産物で、本山製錬所(後出)では、敷地内に硫酸工場を設けて硫酸を出荷していました。
 
タキ29312という形式番号と、古河機械金属の社名が入っています。タキ29300形濃硫酸専用タンク車で、濃硫酸を39トンまで積載出来るタンク車です。
 
説明文によると、1980年(昭和55年)に川崎重工で製造され、足尾で活躍したあとは、秋田県の小坂製錬が所有する小坂線(奥羽本線の大館駅から小坂までの貨物専用線)で濃硫酸を運んでいたのを、小坂製錬が2007年(平成19年)に事業を終えたため、所有者である古河機械金属から足尾歴史館(前出)に譲渡されたというようなことが書かれています。意外に新しい車両なんですね。でももう35年近く経つのか。
 
こちらはカバーが掛かっていますが、向こう側はディーゼル機関車で、こちら側は車掌車です。
 
足尾駅舎内部、内部も昔の停車場の面影が色濃く残っていますね。
 
足尾駅の窓口はこの日は閉まっていました。わたらせ渓谷鐡道が地域の人に駅長を委託しており、管轄は通洞駅と同じなので、曜日と時間を限って開いているそうです。
 
そして冒頭にも載せた、わたらせ渓谷鐡道のトロッコ列車わっしー号です。時間を調べて行ったわけではないのですが、「列車が来ます」という自動構内放送が入ったので、ホームに出てみたら、間藤駅(後出)方向から、わっしー号がやって来ました。僕の場合こういう時、いつも運がいいのです。
 
ちなみにわたらせ渓谷鉄道には、2種類のトロッコ列車が運行されています→参考資料 わたらせ渓鐡道のトロッコ列車のページ
 
トロッコ列車わたらせ渓谷号はディーゼル機関車が牽引する客車列車です。もう一両トロッコ列車が必要になって、わたらせ渓谷鐵道では、自走出来る車両を導入しました。
 
桐生寄りの車両は窓ガラスのある一般車両です。WKT510形という形式の車両です。今のところは1両のみで、車両番号はWKT511になっています。2013年(平成25年)の導入です。
 
そして間藤駅寄りの車両がトロッコ車両になっています。こちらの形式名はWKT550形で、その1号車両なので車両番号はWKT551が付与されています。
 
一般車両の愛称名は、あかがね(銅の訓読み)です。この愛称は引退した車両、わ89-301形から引き継いでいます。現在は、わっしー号と連結して運行するために、塗装を同じカラーで統一しています。
 
わっしー号が入線する前に撮影した構内。桐生方向です。
 
構内は広くてたくさんの側線があり、かつて貨物列車などが運行されていた頃の面影が残っています。向こう側のホームは間藤方面のホームとなっています。
 
足尾駅は、わたらせ渓谷鉄道で唯一〝一線スルー方式〟になっています。一線スルー方式というのは、本来は単線区間において特急などの優等列車を通過させるために作られる構内配線で、優等列車を直線側を通し、待避列車はポイントを通過して待避線に入って通過列車を待避します。この写真では手前が直線、向こう側が待避線という配線です。実際にわたらせ渓谷鐡道では待避は行われないので、直線側を桐生方面への上り専用線、待避線を間藤方面への下り専用として使っています。
 
そして間藤駅方面を望んだところ。
 
足尾駅の駅名票。
 
これは足尾駅前の花の渡良瀬公園駐車場脇に設置されている案内板。足尾にはかつて馬車鉄道が、そしてそれに代わってガソリンカーが走っていたのだそうです。
 
そして次は間藤駅です。間藤駅の開業は、1914年(大正3年)12月31日です。間藤駅は、「時刻表2万キロ」などの著作がある紀行作家宮脇俊三さん(1926年12月9日~2003年2月26日)が、国鉄完乗を果たした駅でもあります。建物は比較的新しい建物に建て替えられています。
 
間藤駅の駅名票。
 
足尾駅でトロッコ列車わっしー号と行き違いをした列車が僕の後を追うようにして、間藤駅に到着しました。愛称は〝けさまる〟です。語源は沿線にある袈裟丸山という山の名前なのだそうです。
 
 ホームに停車している様子です。
 
車両はWKT-501という車番が描かれています。これは前出の新潟トランシス社で製造されたWKT-500系車両のうちの一両で、2011年(平成23年)3月29日から営業運転が開始されたそうです。わっしー号が営業運転を開始した当初は、この車両が連結されて一緒に運行に就いたそうです。
 
横腹にはアルファベットで〝Watarase〟のロゴが。左右の絵はもみじと猪です。同じ型の車両がもう一両あって、そちらはWKT-502の車番が付与されており、図柄はシカだそうです。間藤駅はカモシカが見られる可能性のある駅だということですが、カモシカでないのですね。間藤駅の外壁にはカモシカの絵が描かれているのですが。
 
 こちらは反対側から見たところ。
 
 そして間藤駅から先、本山製錬所まで、かつては貨物線が通じていました。写真の先に車輪止めが見えますが、更に進むとまだレールが残っています。
 
 日光市が立てた、間藤駅に関する案内板です。
 
 現在の間藤駅は駅舎はあるにはありますが、改札口はなく、直接車両に乗り込むことになります。駅舎は待合室と観光資料などが置かれた案内所的な使われ方をしています。また駅前には木製のテーブルとベンチがあり花壇もありますが、かつてはここに頭端式(行き止まり)の線路があって、旅客列車はそこから発着していたそうです。
 
間藤駅から先に進むと、途中には踏切跡があります。道路の部分のレールは撤去されて、アスファルト舗装になっていますが、踏切警報器は残されたままです。
 
 これは踏切から、間藤駅方向を見たところです。少し荒れてはいますが、まだレールや枕木が残されたままです。
 
 そしてこちらは、反対側の本山製錬所方向を望んだところです。この先で松木川(渡良瀬川の上流部の名称)を渡り、右岸の旧本山小学校の下に出て、その後はトンネルを抜けて本山製錬所に至っています。
 
 これは旧本山小学校に行く道から、一段低い川沿いを通る線路です。旧本山小学校は現在は閉校していますが、写真の右上のほうにあります。
 
 そして線路は、旧本山小学校へ行く陸橋の下を通って、トンネルに入ります。
 
 トンネルを抜けると、右下に南橋の集落を見ながら更に進み、その後も短いトンネルを潜ります。
 
 南橋の集落から奥へ進む道があったので、少し歩いて、進入禁止の鉄骨があるところから、二つ目のトンネルを撮ってみました。どちらもズーム機能を使っています。
 
トンネル入口の右にある電柱みたいなものは、腕木式信号機です。今でこそ赤、黄、緑の3色のランプを使った色灯式信号機が当たり前となりつつありますが、昔はこの信号機が当たり前でした。現在でも一部の鉄道では使われています(※3)。
 
さいたま市の鉄道博物館、京都市の梅小路公園にある京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館に更に博物館棟を作って、博物館と蒸気機関車館を併せた形となり、現在はこう呼ばれています)、日光市にとっては身近な東武鉄道系列で、東京都墨田区の東向島駅に隣接する東武博物館など、鉄道に関する博物館の多くで展示されています。
 
写真では、トンネルの向こう側に本山製錬所の上にある、硫酸タンクがよく見えています。ここまで来ると終点の本山製錬所もすぐそこです。
 
 
※3 現在でも腕木式信号機が使われている鉄道のうち、鉄道ファンでなくても名前くらいは聞いたことのある鉄道会社は、青森県の津軽五所川原駅と津軽中里駅を結ぶ、津軽鉄道です。ブログを書くための資料取りをしている中で、面白いサイトを見つけましたので、リンクを貼りつけておきます。
 
ここは上のトンネルに入る線路敷きです。南橋地区の自治会専用の駐車場のところから一段登った線路際からの撮影です。
 
 
※ここで僕が憤っていることを書かせてください。
前にもこのブログで書きましたが、この線路内には立入禁止のはずなのに、上の写真の踏切跡の所から、松木川の鉄橋を渡り、トンネルも潜って腕木式信号機を真下から撮影し、最後は本山製錬所にまで不法侵入(許可を取っているとは思えないので)して、それをブログに上げている人がいるのは悲しい限りです。足尾では新梨子油力発電所の中にまで入り込んで、廃墟探訪などと堂々とブログアップしている人もいて、憤りやら悲しみを感じます。これも所有者である古河機械金属の許可を受けて撮影しているとはとても思えません。不法侵入は立派な犯罪行為です。また廃墟に入り込んで怪我をするのは自業自得なので構いませんが、そうなれば救急搬送など周りにも迷惑が掛かるわけです。これはかなり真剣なお話です。くれぐれも法律に違反しての写真撮影は止めましょう。
 
閑話休題。これは古河橋の前から、腕木式信号機のあるトンネルを撮影したものです。こうして見ると、山というよりは、岩を貫いているトンネルなのですね。
 
ズームなしで撮影するとこんな感じです。護岸工事がされた松木川の上を、山肌を縫うように線路を引いたことがよくわかります。
 
これは本山製錬所と古河橋(※4)を撮ってみました。奥にガーター橋で本山製錬所に入る貨物線が見えます。
 
このガーター橋の下を山のほうに進んでいった所に、かつての本山坑、そして本山の集落がありました。
 
 
※4 古河橋は国の重要文化財に指定されています。偶然なのですが、それが決定した日に、僕は日光市が主催した、産業遺産見学会で普段は一般車両が入れない旧松木村と、本山製錬所を見学しています(堂々と許可を得てww)。その時に、日光市の担当者の方だったか古河機械金属の担当の方だったかは覚えていませんが、そのことが発表されました。翌日の栃木県の地元紙下野新聞には、この産業遺産見学会の様子を伝える記事とともに、古河橋が国の重要文化財に指定されたというニュース記事も紙面を踊りました。そんな重要な局面にかの地にいられたのは偶然とはいえ、うれしいことでした。
 
ガーター橋に近づいて、更にズームして撮影したものです。何か今にも貨車やタンク車を牽いた列車がやって来そうですよね。
 
そして古河橋の袂から、本山製錬所の大煙突を望んでみました。これはズームなしの撮影です。
 
そしてズームしてみての撮影。煙突手前右側の2階建ての赤い屋根の建物が、古河機械金属足尾事業所の建物です。この建物の2階は足尾銅山に関する資料の展示室になってました。許可を得て(結構しつこいww)入るとこんな部分もきちんと見られます。
 
足尾銅山と足尾鉄道の写真がたくさん乗せられた僕愛蔵の本をご紹介。左は新潮社から出版されている小野崎敏さんを中心とした方の写真をまとめた『足尾鐡道の一世紀』という本、右は日本地域社会研究所から出版されている柴岡信一郎さんが写真・文を書いた『足尾銅山の郷』という本です。こちらは閉山後の足尾銅山の産業遺産(2012年の刊行)を写した写真、本山製錬所や社宅跡などの遺構の写真が、たくさん載せられています。
 
そしてこちらは非売品ですが、鉄道写真家八木原毅さんの写真集です。八木原さんは、わたらせ渓谷鐡道を始め、各地のローカル線を写真に納めています。この写真集はお友達を通じて八木原さんのご厚意により分けていただたもので、僕にとっても貴重な書籍コレクションになりました。
→八木原さんはFacebookでも素敵な写真を発信されていますので、ぜひご覧ください。
 
また足尾銅山の産業遺産群を世界遺産に登録すべく、官民一丸となって頑張っています。こちらもぜひ応援お願いいたします。
 
 
 
最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。今回は鉄道ファンでもあり、偶然にトロッコ列車わっしー号にも出会えたこともあって、更には元々足尾の中でも間藤駅から本山製錬所にかけての景色が一番好きな僕は、今回は足尾をこんなふうに切り取ってみましたが、足尾にはほかにも素晴らしいところがたくさんあります。産業遺産、自然、温泉と、皆さんなりの足尾を探しにぜひ足を運んでみてください。
 
 (取材日:2019. 4. 3)