ここでようやくご報告します。
4/19の16:13、母が永眠致しました。
去年の夏ぐらいから不調を訴え、病院へ入退院しておりました、今年3月には、ひと山乗り越えた、というブログも書きました。
人の死とはいつやってくるか分からないものです。
4/19当日、なんだかわたしは朝から体が重く、眠気が昼過ぎても続いていて、
16時まで仕事の予定でしたが、15時に上がらせてもらいました。
前日の夜から、母の病院のお見舞いに行こう、と思っていたので、その電車に乗っていたところ、
15:21、父からメール。
「ママが危ないです、仕事早退して病院にきてください」
昨夜からどんよりした不安。
そうか、だからお見舞い行こうと思ってたんだ。
「今ちょうど向かっているところだった」と返し、15:45病室着。
母の目は開いているがほとんど見えてないとのこと。
大きく肩で息をしている。
耳は聞こえてるはずだから、と言われたけど話しかけようにもなかなか声が出ない。
父が母に、「おい、のぞみ(わたし)がきたぞ」と声をかけるとわずかに瞳孔が動く。
心電図がずっと嫌な音で鳴り続いていて、
看護師も代わる代わる様子を見に来る。
この時、心のどこかで、またこの間の3月みたいに乗り越えられるんじゃないか、と、思い見つめていました。
痩せ細った腕を掴み、父は話しかけ続けます。
呼吸器をつけ大きく肩で息する母に、わたしも、「苦しいの?」と腕をさすりました。
そうして16:13、まるでドラマのように心電図が一本の線になり、音は素早く看護士さんに消され、
母の手はみるみる白く変わっていきました。
それを見た瞬間、「生きてる」って、いかにいろんな細胞が働いているのかわかりました。
その日、帰った時、家のつつじが丁度満開に咲いていたのが印象的でした。
今まで泣いた顔なんて一度も見せなかった父が、病室では、目と顔を真っ赤に腫らしていました。
そんな直後でも父は、母に死化粧を施そうとやってきた看護士さんに、
「宝塚みたいにしてやってね」
と笑いをとったり、
後日、母の遺体を棺に入れる時、
「この人、足が長いからね、入るかな?」
と、納棺の人をくすりとさせたり、
自分がどうしようもないほどの悲しみの中で、なんて周りを和ませることができる人なんだろう、と密かに感動。
その時ふと、「銀河鉄道の夜」のカンパネルラのお父さんを思い出しました。
川に沈んだ息子の死を受け入れ、捜索を手伝う周りの人に「もう遅いからどうぞお帰りください」と告げるシーン。
そしてジョバンニに対する思いやりの言葉。
あれはとても好きな場面で、そんなカンパネルラのお父さんを無意識に、自分の父と重ねていたのかもしれません。
悲しみの力に負けず、他人を思いやる両親が、わたしは好きで、昔から誇らしく思っています。
24日の夜がお通夜。25日が告別式でした。
25日は夕方に解散したので着替えてから、リハにはもちろん出れず、川崎のチッタへ向かいました。
facebookで繋がってる従兄弟の一人に、
「そういえばワンマンライブもうすぐじゃない?」
と、言われ、
「うん、3日後だよー。ほんと、なんでこんな時に…」
と、こぼすと、
「お前、自分で選んだ道だろ」
と、言われました。
その時なんだかハッとして、
母に言われたみたいな気持ちになりました。
子供の頃から、母は「勉強しなさい」とか、あれしなさいこれしなさい、と言うような人ではありませんでした。
高校受験の時も、母は、
「担任の先生に、娘さん、希望校が一個だけで滑り止めも何も受けないけど大丈夫なのか?って聞かれたけど、笑っちゃいそうになったわよ、わたしが高校行くわけじゃないんだからさ。
本人が行きたいところ、そこしかないならそこでいいでしょ、自分で決めることなんだから。」
なんだか、そんなことを思い出し、川崎へ向かっていました。
葬儀は、参列してくださった皆さんから、献花を。
カラオケが大好きだった母の思い出の曲や、父とよくデュエットしていた曲が終始流れる式となりました。
「まるで結婚式のように華やかな式だった」
と、他の方から言われるほど。
会場に用意していた椅子が足りず、献花しようと人の列がズラっとできていました。
母はまるで力尽きるように逝ってしまったから、
何故こんなにも早く逝ってしまったんだ、としばらくは思っていました。
けれど、葬儀の時に、母の小さい頃を知っている親戚や、会社の人たち、たくさんの話を聞くうちに全く知らなかった母親の姿を思い知ることとなりました。
母は一人っ子で、子供の頃、両親が離婚して、親戚のうちに預けられたり、とにかくゴタゴタしていたそう。わたしたちにはそんな苦労話しあまりしたことありませんでした。
とにかく頭のいい子で我慢強かった、と。
「兄弟がほしかった」とよく言っていた母は、不遇な子供時代があったからなんだと、
思えば、あんな風貌で、料理も家事もしっかりこなし、小学生までは、朝食は家族全員でとり、インスタントは極力食べない、おやつも、豆やせんべいなどが多く、冷蔵庫の中の飲み物はお茶や牛乳だけ。
本当に、自分とは違った暮らしをさせたかったでしょう。
仕事においても全力で、要領が良く、どこへ行っても目立っていたようです。
それ以外の活動も積極的に行っていたことを、式での同僚のスピーチで知りました。
また、わたしが21歳の頃に、両親へ書いた手紙を「ずっとお母さんは会社のカバンの中に入れてたんだよ」、と他の人から聞き、
きっと感謝の気持ちは伝わってるんだ、と安心しました。
けど、
こうして見ると、笑った顔が似てきたような気もしますね。
キッチンの上の高いところのものをわたしが取ろうとしてるのを見ると、よく、
「ふん、チビ」
と言って取ってくれました。
母は本当に、素直に自分の気持ちを言いません、
また、わたしたち家族がきっとみんなそうです。
特に辛いことや悲しいことをみんな隠します。
わたしは娘として唯一、母が尽きる場面に立ち会ったのに、
未だに、寝て起きると、忘れているのです。
母が死んだこと。
それが、リビングの様子や家族を見て、徐々に思い出す、という感覚を、今の今も、感じ続けています。
母をふと思い出すと、道だろうが電車の中だろうが、まだまだ涙は滝のように流れます。
けれど、これだけバイタリティ溢れ、仕事も家事も育児も、夜の飲み友達ともたくさんの人付き合いをした人生を送っていたのだと改めて知り、
63歳…それもそうか…と思い始めてきています。
無趣味で休日は家で昼まで寝てる、というイメージだったのですが、実は全く逆だったんですね。
母は全力で63年間を生きました。
式の最後、父の喪主挨拶の原稿です。
あの時はさすがの父も泣いてうまく喋れないところがあったので記念に撮っておきました。
生前、母に関わってくださった方々、本当に感謝です。









