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 忙しい日常を送りながら、ときどき自分の内面の動きを客観的に観察することってありませんか? 自分は一体何を望んでいるのか、何をしようとしているのか、自分がこんなふうに感じるのは何故なのか、どうやら自分はこういうことが好きらしい、などなど。今日はそんなふうに内面の動き、自分のマインドの構造や作用の一面を少しのぞいてみようと思います。こういう情報が何に役立つのか私にも分かりませんが、勇気を出して書いてみることにしました。


 いろいろな現象に対する自分の心の働きや反応をよく観察していると、宗教的な部分が閉めるウェイトは自分で考えている以上に相当大きいみたいです(ここで言っているのは宗教「的」ということであって、特定の宗教団体のことを指しているわけでない)。価値判断、意思決定、勇気、感動、努力、葛藤、日常のそんな場面でもしばしば「神」が出現する。「運を天に任せる!」、「苦しいときの神頼み!」みたいに、意図的に「神」を持ち出す時もあるのですが、別に悪い気がしているわけでもない。幼いころから聖書に触れてきたことが影響しているのはもちろんあるでしょう。同時に、この世界の真理を科学的に探究したい、とくに宇宙や地球や物理などの自然科学に情熱を傾けていくにつれて宗教的なマインドがどんどん強化されていったような気がします。大宇宙の神々しさ、かけがえのない美しい地球の姿はそのたたずまいだけで本当に神秘的ですからね。


 こんな話を聞いたことがありますか? 深淵な大宇宙の仕組み解き明かす宇宙論では、この世界は超ミクロの領域から大宇宙のすみずみまでいくつかの物理の基本原理・基本法則(重力や電磁気力など)によって統一的に支配されている、と考える。それらの代表的な基本原理も、絶対的な、究極の、たった一つの基本原理に統合されているはずだという信念を持つ研究者も少なくない。その絶対的な究極の唯一の基本原理はまだ見つかっていないので、その発見を目指して物理学者たちは日夜研究活動に励んでいるわけです。しかし考えてみると、この「絶対的な、究極の、唯一の基本原理によってこの世界が統一的に支配されている」という発想はユダヤ・キリスト教的な世界観に近いと感じませんか? 「基本原理」を「神」と置き換えてみると、「絶対的な、究極の唯一者、全能の神によってこの世界は統一的に支配されている」というニュアンスで通りますよね。たった一つの絶対的な神を想定する一神論(一神教)とゴリゴリの基礎物理学である宇宙論の発想は驚くほど高い親和性があると感じるのはきっと私だけではないと思います。


 「宇宙論」は天才たちの墓場と言われるぐらいの、ある意味苛酷極まる物理学の学問分野の一つで、好きだからと言って興味本位で安易に専攻したら・・・、間違いなく私は卒業できなかったと思います(笑)。そういうわけで私は学生のとき宇宙の中でももっと身近な宇宙空間の物理を専攻するという賢明な判断を下したのですが、そうは言っても宇宙論には子どものころからずっと強いあこがれを抱いてきたわけで、現在でも仕事とは無関係に相変わらずその道の勉強を欠かさず続けています。「無」からの宇宙の誕生、量子トンネルでの虚数時間、指数関数的宇宙膨張モデルなどなど、まだ決着がついていない仮説が多いものの、どれもこれも本当にキラキラと輝いているように見える。こういう科学的な試みを通して宇宙の設計者・創造者の意図、まさに神のご意志に本当に近づけるんじゃないか、ん? これは錯覚なのか、しかしそういうふうに心が動く自分がいる。


 自然とこんなふうに考える習性は幼いころから聖書を学んできたことの賜物だろう。この大宇宙には設計者・創造者いて、その設計者・創造者と聖書の神が同一だと認識しているわけですから。というわけで、宇宙論を勉強したり、宇宙の神秘を科学的に探究すればするほど聖書の神への信仰がますます強化されていくという構図。聖書を読むような気持ちで物理の勉強をする、宇宙の神秘を探究するような気持ちで聖書を読む。だけど宗教団体とは不思議と結び付いてこなかった。とくに教団と自分との適切な距離を見極めることができるようになって、納得しようがない教理上のがんじがらめから自由になったことは本当にプラスに働いているみたい。コミュニティの中での摩擦と衝突からくるストレスも劇的に減りましたし、教団の宗教活動に参加していた頃よりも現在のマインドのほうがずっと洗練されて良い意味で宗教的になっているような気がするわけです。(参考記事:20250928-現在の宗教2世としての自分の立ち位置について)


 ほーう、で、それで自分の人生に満足しているわけですか? 

 

 

 どのように説明したら良いのでしょうか、世界の財宝を見つけるための旅をしているような感覚に近いかもしれません。本当に財宝を発見できれば実にラッキーなことですが、ひょっとすると財宝を手にすることができるんじゃないかという大いなる期待の中で航海を続けること、そのプロセス自体にワクワクした感覚と精神的な充足を獲得している、そんな感覚でしょうか。そうそう、人類初の動力飛行機を発明したライト兄弟にまつわる興味深いエピソードがあるのでご紹介しておきましょう。私が大学を卒業するときに卒業式典で学長先生が卒業生に贈る祝辞の中で言及したもので、次のような内容でした。


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 ある人がライト兄弟に尋ねた。「人生で最も幸福だったのはやっぱり飛行機の発明に成功したときですよね?」。それに対してライト兄弟はこう答えたという。「大空を飛びたいという人類の夢を実現できたことは本当に幸福なことだった。しかし大空を飛びたいという人類の夢を実現するために努力していた時の幸福に勝るものではない!」。
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 私はライト兄弟のような非凡な才覚を持たないただの凡人で、同列に比較するのは僭越極まりないのですが、こんな私でも探究の歩みに生きがいを感じながら過ごしていることは確からしい。実際、日頃、科学技術を出発点とし宗教的なマインドに結び付くベクトル上では十分過ぎるぐらい知的刺激で満ちているし、仕事で、趣味で、その出発点周辺に人間関係を作ってきた。しかしその一方で、聖書を出発点とし宗教的なマインドに到達するベクトルについて言うと、他者との相互作用があればもっと心強いだろうなと思っているフシがある。別の言い方をすると、どこか物足りなさを感じているみたいだ。良好な相互作用は思いがけない化学反応を生むことがあるし、そういう効果で自分の精神的文化水準を一つ上の高みに持ち上げることができるんじゃないかと、どうもそんなことを考えているようだ。どこかで聞いた月並みな言い方をすれば「自分の霊的な必要を自覚している」、そんな表現が該当するのではないでしょうか。


 う~ん、どこかまとまりのない作文になってしまったかもしれませんね。でもまぁそんなもんです。