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キーボードのブログ

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 教団の中におりますと、子どもの頃から様々な活動への制限・制約があり、新しいことに挑戦する、やってみたいことにチャレンジするというかけがえのない機会がたくさん奪われているというお話しがあります。実際、強い強制力を伴っている教団の指導にまじめに従おうとすると、クラブ活動、サークル活動、進学、就職などにおいて、世間の多くの子どもたちと同じように自分の自由な意志を発動することは現実的にも心理的にも極めてハードルが高い。子どもの頃の私はひたすら勉学に奮闘していた口でしたから、クラブ活動やサークル活動に対する未練は全くなかったのですが、それを差し置いても大学進学に対する過剰なまでのネガティブキャンペーンの直撃を受けた体験からすると、その感覚はよく分かります。子どもにとってはものすごい逆風になることがありますよね。


 幼い頃から教団組織への恭順を徹底的に叩き込まれていますし、教団のメッセージは神のメッセージであるかのように巧妙にすり替えられている。しかも、乾杯をしてはいけないというような実にしょーもない日常生活まで口出しし、行動ばかりか考え方・感じ方までコントロールしようとする。そういう精神的な支配のもとで、大会、集会、家庭、出版物を通して高等教育を敵視するような空気を絶えず吸っていたら、従順な子どもにとっては、教団が奨励する進路以外の選択、その自発的な意志決定の余地はほとんど残っていない。第一、教団の出版物の趣旨を読めば大学進学という選択肢はまず出てこない。敏感な子どもは親の顔色を読む、教団の空気を読む。教団が奨励する進路とは異なる、自分の本当の気持ちを公にしようとしても心理的な急ブレーキがかかることは容易に想像できます。


 私は、幸か不幸か、教団による高等教育に対する異様な空気の存在を認識するずっと前に、大学で宇宙の物理を勉強したいという決意を固めていました。そういう決意はあったとはいえ、高等教育に対する教団のヒステリーじみた空気は全く心地良いものではなかったし、不快感や苛立ちもありました。そういう反発と抵抗によって生み出される感情的なエネルギーを受験勉強に傾ける新たな燃料に転換していたという側面は確かにあります。だからと言って教団独特の空気に由来するプレッシャーをすべて消化できていたわけではなく、大学受験そのものがものすごいストレスでしたから、不必要な心理的プレッシャーなど絶対無い方が良い。


 宇宙の科学的探究という学問分野において総合的な研究・教育システムを十分に備えた大学は一部に限られていた関係で、そういう大学の合格レベルに到達するための勉強に私は死に物狂いで格闘していました。勉強!、勉強!、勉強!、毎日が猛烈な戦闘モード。それでも、ストレートでの合格切符を手にすることはできず、幾度となく涙を吞みました。高校卒業から大学入学まで結構ブランクがあり、苦しい受験勉強の期間は他人と比較しても長かったわけです。敗け戦を繰り返し、無力感から自分を見失いそうになる。精神をすり減らす。教団の指導は支えにならないし、それどころか高等教育に対する姿勢は例の通りでしょう?傷口に塩を塗る、敗者に追い討ちをかける仕打ちのように感じますよね。ますます心理的に追い詰められる。当初の決意が揺らぐことだってあります。社会的地位のあった未信者の父親の期待から大学進学しないという選択肢も無い、だから行き場も無い。じゃあ一体どうしたら良いんだ!と頭をかきむしる。そういう状態でも教団の宗教活動の手を緩めることはできず、精神的に苛酷極まりない。敗北者なのに布教活動をしなければならない、そのことへのためらい、一体なんの罰ゲームなのか。精神衛生上ホントに良くない。それなのに大学進学を諦めなかったのは、確固たる強い信念か頑固で融通の利かない石頭か、このあたりの評価は分かれるところだと思いますが、そうでもなければ途切れることのない受験勉強などとてもできなかったと思います。勉強時間と熱量の絶対的な積分量はすさまじいボリュームだ。その当時からクソまじめに継続する馬力だけは恐ろしいほどあったんですよね。


 とにかく歯を食いしばっていた当時の体験や心理状態についてはここではとても書ききれないエピソードであふれています。大学受験というのは自分史を語る上では欠かすことのできない大事な思い出の一つで、たまにその時代を彩ったヒットソングを耳にすると強いノスタルジーを感じることもあります。まぁそうは言っても、もう一度あの地獄のような受験生時代を再体験するとなったら、本当にゾっとする!