大学進学というテーマで連投して申し訳ありません。以前から気になっていたことがあるので、ここで備忘録的に書きくだしてみることにしました。
これまでの記事で書いた通り、私は大学進学を果たしたわけですが、一方で教団のフルタイムの奉仕者という選択をした教団2世もいると思います。しかし、その選択は本当に本心だったのかなと疑問を感じ無いわけでもなかった。以前の記事の中で触れましたが、教団独特の精神的圧力は子どもにとってはなかなかキツく感じることがありますよね、とりわけ素直な子どもにとっては。本心では大学進学を望んでいたとしても、その気持ちににあえてフタをして教団のフルタイムの奉仕者になるという選択をした子どもたちは少なくなかったんじゃないかな、とうっすら考えることもあったんですよね。そういうふうに、ある意味で進学を諦めざるを得なかった人からすると、キャンパスライフを楽しんでいる(ように見える)信者に対して複雑な感情を持つことはあるでしょうか。本来なら自分もできたかもしれない夢の追求、物質的な活躍、青春の謳歌、そういうこの世の自由と幸福を享受してハツラツとしている(ように見える)姿を集会所で見かけたらどうでしょうか。私がその立場だったら間違いなく気持ちがざわつきますね。
私は宇宙の物理の探究という真っすぐな気持ちで大学の勉強に猛烈に励んでいたわけですが、一方、教団では世間の高等教育を「世の栄光と富を求めようとする低俗な物質主義、背教的な世の知恵」と短絡的に結び付け、事物の体制の終結がいよいよ近づいているときに高等教育のために時間とエネルギーを割く余裕があるのでしょうか、と自分の意志と行動を翻意させようと近づいてくる。こういうふうに心のベクトルが決定的に違う環境ですと、教団の中でフラットな人間関係を築くのはなかなか難しいと思いませんか。場合によっては摩擦の発生も避けられないでしょう。なるべく穏便に済ませるよう私も努力はしました。実際のところ、実験、実習、課題に追われ、指導教員に絞り上げられ、バイトに汗を流し、その上、教団の宗教活動、週3日の集会、割り当て、布教活動、音響などの補助業務など、それらをきちんと果たさないと教団コミュニティの中での人間関係がいろいろ面倒なことになる(実際、面倒なことが多かった)。分かりますよね、余裕なんて無いのが現実なんです。うまくやっているとても器用な人たちもいるようでビックリしてしまいますが、不器用な私にとっては、大学進学しても、教団のフルタイムの奉仕者という立場を選択しても、どちらにしても教団の中では精神心理的に安らぎの無い結果しか見えないわけです。
「それでは、キーボードさんは大学進学後の自分の学生時代を振り返ってみて、今どんな感想をお持ちなんですか?」
そうですね、自分の学生時代を客観的に振り返ってみると、確かに歯ぎしりするほど苦しいことが圧倒的に多かった。ホントに洗濯機に頭を突っ込みたくなる。教団との関係についても複雑な気持ちがある。しかしそのはずなのに、これが不思議なもので、大学で過ごした何気ない風景の一つ一つまで強いノスタルジーを感じる納得の行く人生の一部になっているんですよね。宇宙だ地球だ創造者だと、初々しい気持ちとみなぎるようなやる気で満ちた夢のような日々として、かけがえのない思い出になっていますよ。旺盛な好奇心を発揮して本当によく勉強した。そういう場と人にも恵まれた。接点のあったたくさんの大学の教職員、生協のスタッフの皆さんに心から感謝だ。
教団と非常に相性が良いという人は確かにいると思います。ただそういう人ばかりではない。事実、私はそうではなかった。人間の心はそんなに単純でもない。不自然なぐらい抑圧したものを抱えている人たちも少なからずいるんじゃないかと、そんなふうに憶測するのは考え過ぎでしょうかね。